麒麟と微睡の猫

麗らかな小春日和の陽光が、蜀の陣営に穏やかな影を落としていた。吹き抜ける風は冷たさを孕んでいるものの、日の当たる縁側に限っては、まるで春が戻ってきたかのような暖かさに包まれている。 その日溜まりの中心で、姜維は静かに胡座をかき、膝の上に広げた竹簡に鋭い視線を落としていた。亡き丞相から託された兵法書を読み解く彼の顔には、常にこの国の未来を背負う者特有の、険しく深い皺が眉間に刻まれている。時折、書物を捲る乾いた音が響く以外、彼の周囲には人を寄せ付けないほどの張り詰めた空気が漂っていた。 そんな彼の厳格な領域へ、音もなく近付く影が一つ。 ――#name#である。 彼女の歩みは、まるで陽気の中を散歩する猫のように気まぐれで、そしてひどく静かだった。さきほどまでは陣の入り口付近で、若い兵士たちや見知った将と何やら楽しげに言葉を交わしていたはずだが、ふと風の向きが変わったかと思うと、一人でふらりとこちらへ歩いてきたのだ。 竹簡から目を離さない姜維は、足音こそ立てないものの、微かな衣擦れの音と彼女特有の柔らかな気配で、#name#が近づいてきたことにはとうに気付いていた。用事があるなら声を掛けてくるだろう。そう思い、あえて視線を上げずに待っていたのだが――。 ふわり、と。姜維の視界の端で、彼女の衣が揺れた。次の瞬間、#name#は言葉を発することもなく、竹簡を持つ姜維の腕の間をすり抜けるようにして、彼が胡座をかいて作っていた足の窪みへと、するりと己の身体を収めてしまったのである。 「......#name#?」 突然、自身の懐にすっぽりと収まってしまった温かい重みに、姜維は目を丸くして手元の竹簡を止めた。腕の中に収まった彼女は、姜維の顔を見上げるでもなく、ただ己の特等席を見つけたと言わんばかりに、彼自身の体温と背中から当たる陽光を浴びて、心地よさそうに目を細めている。「構ってほしい」という言葉すら発しない。ただ、己の赴くままに一番安心できる場所へと潜り込み、相手が受け入れてくれることを少しも疑っていない、生粋の猫のような無言の要求であった。 そのあまりに自由で無防備な仕草に、姜維の口から、張り詰めていた息がふっと漏れ出た。つい先刻まで国を憂い、眉間に刻まれていた険しい皺は嘘のように消え去り、あとには困惑と、それを遥かに上回る甘やかな呆れだけが残されている。 「お前という奴は......。私が今、何を読んでいたか分かっているのか」 「兵法書ですよね。邪魔はしませんので、そのまま続けてくださいな」 #name#は姜維の胸元に背中を預けたまま、悪びれもせずに答える。邪魔はしないと言いながら、彼女の体温と甘い香りが懐を占領している状況で、どうして小難しい軍略などに集中できるだろうか。小さく溜息をつき、姜維は手にした竹簡を縁側の脇へと置いた。 もはや、文字など一つも頭に入ってくる気はしなかった。 「......仕方ないな」 降参の合図のようにそう呟くと、姜維は空いた大きな右手を、#name#の頭へとそっと乗せた。幾千もの敵を屠り、槍の柄を握り続けた無骨で硬い掌。しかし、彼女の柔らかな髪を撫でるその手付きは、壊れ物に触れるかのようにひどく慎重で、優しい。ゆっくりと、頭頂から項へ、そして背中の曲線に沿うように、大きな手が一定の律動で彼女を撫でる。その心地よい感触に、#name#の肩からふっと力が抜けた。 人間の彼女は、本物の獣のように喉を鳴らすことはできない。だが、撫でられるたびに彼女の身体が微かに弛緩し、喜びを表現していることは、姜維の掌を通して痛いほどに伝わってくる。 「......ん」 もっと撫でてほしい。そんな無言の要求を示すように、#name#は身体を僅かに捻り、姜維の分厚い胸板に自身の頬をすりすりと擦り寄せた。さらには、彼の衣装の撓みを、小さな両手でぎゅっと握り締める。まるで、この温もりを誰にも渡さないと主張するかのような、愛らしくも我儘な仕草。 普段はどこか飄々としており、誰の指図も受けない気まぐれな彼女が、己の懐の中でだけ見せる絶対的な甘え。その事実が、生真面目な武官の心をどこまでも柔らかく溶かしていく。 「お前は、本当に猫のようだな」 姜維は、彼女の小さな手を、留守になっている左手でそっと包み込んだ。#name#は胸元に頬を埋めたまま、うとうとと目を細めている。 彼女の気まぐれで自由な性質を、姜維は好ましく思っていた。誰の言葉にも縛られず、己の足で軽やかに歩く姿は、重い責務に縛り付けられた彼にとって、眩しいほどに自由な光に見えるのだ。しかし、その自由さゆえに、ほんの少しだけ胸の奥がざわつく瞬間があることもまた事実だった。 「......さきほどは、あちらで随分と楽しそうに談笑していたではないか」 撫でる手を止めぬまま、姜維は静かに問いかけた。それは決して、嫉妬に狂った男の暗い詰問ではない。ただ、彼自身の生真面目さからくる、ほんの僅かな寂しさと確認の言葉であった。 #name#という人間は、その気まぐれな性格に反して、誰からも好かれる不思議な愛嬌を持っている。さきほども、彼女の周りには自然と人が集まり、明るい声が弾けていた。彼らと話す彼女の笑顔は花のように美しく、姜維はその光景を、遠くからただ見つめることしかできなかったのだ。 「皆さんとお話するのは楽しいですから。でも......ここが一番、居心地が良いんです」 姜維の胸元に顔を押し当てたまま、#name#はくぐもった声で答えた。その素直な返答に、姜維の胸の奥で燻っていた小さなさざ波が、春の雪解けのようにすっと消え去っていく。 彼女は誰にでも愛想を振り撒くかもしれない。さまざまな場所を自由に歩き回るかもしれない。だが、最後にこうして安心しきって無防備な背中を預けるのは、己の懐だけなのだ。 姜維は、#name#の背を包み込むように腕を回し、その華奢な身体をより強く抱き寄せた。 「......ならば、良い」 姜維の声は、武官としての厳しさを一切排除した、ひどく甘く、そして深い包容力に満ちていた。彼の大きな手が、#name#の背中を、そして髪を、再び優しく梳いていく。 「複数に懐くのは良いが、最後には必ず私の元へ戻って来るのだぞ」 頭上から降ってきたその言葉には、決して彼女を力で縛り付けようとするような重苦しさはない。ただ、この日溜まりのように温かく、揺るぎない確信だけが宿っていた。 お前がどれだけ自由に外を歩き回ろうとも、お前を一番に温め、守り、甘やかしてやれるのは私だけなのだと。だから、存分に遊んだ後は、迷うことなくこの腕の中に帰ってくればいい。それは、真面目で不器用な彼なりの、最大の愛情表現であり、決して手放すことのないという静かな独占欲の証でもあった。 その言葉の奥にある彼の深い愛情を知り、#name#は目を閉じたまま、ふふっと小さく笑みを溢した。 「分かっていますよ」 答えながら、#name#はさらに彼の懐へと身を沈め、すりすりと心地よさそうに頬を寄せる。 握り締めていた衣から徐々に力が抜け、彼女の規則正しい呼吸音が、長閑な縁側に響き始めた。すっかり安心しきって、昼寝の体勢に入ったらしい。姜維は呆れたように苦笑すると、傍らに置いていた己の外套を手に取り、それを眠る#name#の身体へと掛けてやった。 吹き抜ける秋の風は少しばかり冷たいが、懐に抱いた彼女の体温と、背中から降り注ぐ太陽の光が、姜維の全身を温かく満たしている。やがて、陣営の静寂の中、姜維自身もまた、腕の中の愛おしい温もりを守るようにして、静かに目を閉じるのだった。