千里の甘い手綱
爽やかな秋の風が吹き抜ける、魏軍の厩舎。
ずらりと並んだ駿馬たちが、干し草を食みながら時折鼻を鳴らす穏やかな空間に、ひときわ熱心に馬の手入れをしている一人の武将の姿があった。曹休である。自らを「千里の駒」と称し、誰よりも馬を愛する彼は、暇さえあればこうして厩に足を運び、馬たちの機嫌を窺っては甲斐甲斐しく世話を焼いていた。今日も額に薄っすらと汗を滲ませ、愛馬の首筋を丹念に撫でるその顔には、戦場では決して見せない緩みきった笑みが浮かんでいる。
そんな彼の無防備な背中を見つけ、#name#は忍び足で近付くと、背後からひょっこりと顔を出した。
「曹休様、こんにちは!」
不意の明るい声に、曹休はびくりと肩を震わせて振り返った。手入れ用の刷毛を握り締めたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。その頭頂部では、馬の尾を模したような括り髪がゆらゆらと風に靡いていた。
「ああ、#name#殿!俺に何か用か?」
気心の知れた間柄ゆえの、警戒心が砕けた口調。しかし、その顔はどこか「軍務の最中に油を売っていたところを見られた」ような、少しばかりの間抜けさが漂っていた。#name#は内心でくすりと笑いながら、わざと小首を傾げて少しだけ寂しそうな声を出した。
「用が無ければ、声を掛けてはいけないの?」
「あ、いや!そういうつもりは......!」
途端に、曹休の顔に分かりやすい焦りの色が浮かぶ。大きな目をさらに見開き、手にした刷毛を宙で彷徨わせながら、どう言い訳すべきか慌てふためくその姿は、まるで叱られた仔犬のようであった。
彼のこういう素直すぎるところが、#name#はたまらなく好きだった。
「ふふ......冗談ですよ」
#name#がころころと鈴を転がすように笑うと、曹休は自分が揶揄われていたことに気づき、途端に表情を強張らせた。
「揶揄うのは止せと、前から言っているだろう......」
「ごめんなさい。でも、近くを散歩していたら、曹休様のお姿が見えたので......つい来てしまいました!」
悪びれもせずににっこりと微笑みかけると、曹休の顔から抗議の色が急速に薄れていく。
「つい、来て......?」
彼の端正な口元が、だらしなく緩んだ。
自分を見つけて、わざわざ会いに来てくれた。その事実が嬉しくてたまらないといったように、照れと喜びが混じり合った『何とも言えない顔』へと、ものの数秒で表情が切り替わる。その変わり身の早さに、#name#はまた吹き出しそうになるのを必死に堪えなければならなかった。
それから二人は、並んで馬たちの世話を始めた。#name#が干し草を運び、曹休が馬体を拭い、鬣を梳く。気まぐれに馬が鼻先を擦り寄せてくると、曹休は我が子を慈しむような手付きでそれを撫でてやった。
並んだ駿馬たちの美しい毛並みを眺めながら、ふと、曹休の手が止まる。そして彼は静かに、隣に立つ#name#を見下ろした。
「......愛らしいな」
いつもより一段低い、しっとりとした声。そして、その顔はどこまでも真剣であった。#name#はてっきり、彼が目の前の馬たちのことを褒めているのだと思い、同意するように大きく頷く。
「ええ、本当に。どの子も可愛らしくて、見ていて飽きないですよね」
「いや......お前が、だ」
不意に落とされたその言葉に、#name#の心臓が大きく跳ねた。
「......え?......私が?」
驚いて見上げると、曹休はいつの間にか、蜂蜜のように甘く優しい眼差しで#name#を見つめていた。その瞳には、先程までの焦りや照れは微塵もなく、ただ一人の女を深く愛し抜く男の、揺るぎない熱が灯っている。
「ああ。馬は確かに癒やしになる存在だが、お前はそれ以上に俺の手綱を握って離さない」
彼の口から紡がれたのは、彼らしい比喩に彩られた、途方もなく重く甘い告白であった。慈しみに満ちた顔でそんなことを言われてしまっては、日頃から彼を揶揄って遊んでいる#name#とて、平静を保っていられるはずがない。
(......まあ!こんな真っ昼間からそんな甘言を......!なんて愛おしい方なの!)
胸の奥で爆発した愛おしさが、理性の堤防をあっさりと決壊させた。
#name#は手にした干し草の籠を放り出すと、勢い良く曹休の広い胸へと飛び込み、その首元にぎゅっと両腕を回して抱きついた。
「お、おい!#name#殿!......こんな往来で大胆な......!」
突然の抱擁に、曹休は「おわっ」と情けない声を上げて硬直した。目を白黒させ、驚きで口を半開きにしたまま、抱きつかれた己の腕をどうしていいか分からずに宙で彷徨わせている。
「大胆でも何でも、私は構いません!見られているなら、逆に見せつけてやればいいじゃないですか」
「見せつけるって......俺は周りの目が気になって仕方ないのに、なんと横紙破りな......っ」
顔を真っ赤にして動揺する曹休の胸に頬を擦り寄せながら、#name#は彼の背中に回した腕にさらに力を込めた。彼から伝わる大きな動悸が、#name#の鼓膜に心地よく響く。
「気にするから、気になるんですよ!周囲の人間なんて、仔馬だと思えば良いんです。ね?」
「......#name#殿がそこまで言うなら......」
曹休はぶつぶつと文句を言いながらも、#name#を引き剥がそうとはしない。むしろ、観念したように息を吐くと、照れ隠しのために不満げな顔を作って見せた。
「......後ほど、この件に関しては殿に報告し、罰して頂かなければ......」
「ふふっ......正直な御方ですね。でも、報告せずとも黙っていれば良いのです。......このことは、二人だけの内密事項にしましょう?」
#name#が悪戯っぽく上目遣いで囁くと、曹休の顔に今度は絶望的な狼狽の色が広がった。真面目すぎる彼にとって、主君に隠し事をするというのは、戦場で敵に囲まれるよりも恐ろしい事態らしい。
「......この事実が露見してしまったら、俺はなんて説明すればいいんだ」
本気で頭を抱えそうになっている愛しき人に向かって、#name#は太陽のように明るく笑いかけた。
「言葉で説明しなくても、笑って誤魔化してしまえばいいじゃないですか」
そのあっけらかんとした言葉に、曹休はしばらく呆気に取られたように#name#を見つめていた。しかし、やがてその目元がふっと和らぎ、どうしようもないとばかりに気まずそうに目を伏せる。
「......お前には、敵わないな」
ぽつりと呟いた彼は、宙を彷徨っていた両腕をゆっくりと下ろし、#name#の華奢な背中を戸惑いがちに、けれど確かに抱きしめ返した。
秋の陽光が降り注ぐ厩舎の中、二人の笑い声と馬の穏やかな嘶きが、どこまでも優しく溶け合っていた。