悪魔の渇望
夜の帳が下り、豪奢な殿閣に甘やかな香が漂い始める頃。薄絹の帳が揺れる一室で、郭嘉は幾人もの美しい女官たちに囲まれていた。彼の白く透き通るような肌は微かに朱を帯び、手にした盃には琥珀色の美酒が揺れている。気怠げに流し目を送るだけで、女官たちは頬を染めて彼に擦り寄り、その見目麗しい軍師の歓心を買おうと甲斐甲斐しく酒を注いでいた。
誰もが羨むような艶麗な光景。しかし、郭嘉の真の目的は、目の前の女たちを侍らせることではない。
少し離れた回廊の陰から、ひっそりとこの部屋の様子を窺っている一人の娘――#name#の視線を、彼はとうに気付いていたのだ。郭嘉は唇に薄い笑みを刻むと、わざと女官の髪を撫で、周囲に見せつけるように親密な空気を醸し出す。遠目にも分かるほど#name#の肩が強張り、その瞳に微かな痛みが走るのを、彼は極上の酒の肴として愉しんでいた。
やがて、耐えきれなくなった#name#が踵を返して立ち去ろうとした瞬間。郭嘉は音もなく座を立ち、回廊の角で彼女の腕を捕らえた。
「おや、もう行ってしまうのかな?宴はこれからだというのに」
「......お邪魔かと思いましたので。どうぞ皆様と楽しい夜をお過ごしください」
強がって視線を逸らす彼女の耳元へ、郭嘉は甘い酒の香りを纏った吐息を吹きかける。
「君一人を逃したところで、私は女性には困らないからね。......少しでも気を抜けば、私の隣はすぐに別の花で埋まってしまうよ」
それは、彼女の心をかき乱し、もっと自分に縋り付かせるための見え透いた罠であった。嫉妬に狂い、涙ながらに己の袖を掴む愛らしい姿を期待して放った、意地悪な毒。#name#は微かに唇を噛みしめると、彼の腕を振り解き、無言のまま薄闇の奥へと消えていく。その背中を見送りながら、郭嘉は勝利を確信したように、独り静かに盃を煽った。
しかし、郭嘉の予想に反して、翌日からの#name#は奇妙なほど落ち着き払っていた。彼のもとへ押し掛けて不満をぶつけるでもなく、ただ淡々と己の務めをこなしている。それどころか、昼下がりの庭園で、郭嘉の視界に信じがたい光景が飛び込んできたのだ。
春の陽光が降り注ぐ中、#name#が荀彧と並んで歩いている。普段は生真面目な王佐の才が、歩みを緩めて#name#に耳を傾け、時折、ひどく柔らかな微笑みを浮かべているではないか。#name#もまた、郭嘉の前では見せたことのないような弾ける笑顔で、荀彧の袖口を軽く引いて見せた。二人の間に流れる空気は、誰の目から見ても「親密で、甘やかなもの」に映る。無論、それは#name#が荀彧に頭を下げて頼み込んだ、郭嘉への反撃の芝居である。荀彧は「郭嘉殿の悪癖を直すためなら」と、呆れながらも一役買って出たのだ。
だが、そんな裏事情を知る由もない郭嘉の胸中に、どろっとした冷たい泥のような感情が渦巻いた。手にした竹簡の骨が、軋む音を立てる。常に余裕を纏っていた彼の仮面が、ほんの僅かに、だが決定的にひび割れた瞬間であった。
その夜。書庫で一人、古書物の整理をしていた#name#の背後に、音もなく黒い影が忍び寄った。気配に気付いて振り返るよりも早く、細くしなやかな腕が彼女の腰を背後から捕らえ、そのまま冷たい壁へと乱暴に押し付ける。
「......っ、郭嘉、様......?」
「こんなに遅くまで、ご苦労なことだね。荀彧殿が手伝ってくれたら、とうに終わっていたのではないかな」
背後から耳朶を食むように囁かれた声は、氷のように冷たく、そして恐ろしいほどの熱を孕んでいた。逃げ出そうとする#name#の退路を断つように、郭嘉は両手を壁につき、彼女を己の腕の中に完全に閉じ込める。暗がりの中で光る彼の双眸は、獲物をいたぶる残酷な捕食者のそれであった。
「荀彧殿とは随分仲が良いんだね。......もしかして、私への仕返しかな?そうだとしても、君の見え透いた策に引っかかりはしないよ」
それは、郭嘉の完璧な痩せ我慢であった。とうの昔に嫉妬で腹の中を煮えくり返らせておきながら、決して己の敗北を認めようとはしない。彼は悪魔の仮面を被り、まくまで「君の浅知恵などお見通しだ」という余裕の態度を崩さなかった。
だが、彼女の顎を掬い上げる指先には、隠しきれない力が籠もっている。
「仕返しだなんて、そんな......」
「嘘をつくのは感心しないな。君の目は、私だけを見ていれば良いんだ。他の男に向ける視線など、すべてくり抜いてしまいたくなる」
低く、地を這うような独占欲が、言葉の端々からこぼれ落ちる。郭嘉の冷たい指先が、#name#の首筋をなぞり、襟元の合わせ目へとゆっくりと滑り込んだ。肌を直接撫でる彼の体温は酷く熱く、触れられた場所から火が点いたように粟立っていく。物理的にも心理的にも逃げ場を奪われ、#name#の呼吸も次第に荒くなっていった。
彼が嫉妬しているのは明白だった。しかし、この男は絶対に、自分からその事実を口にしない。どこまでも傲慢で、ひねくれた愛情の持ち主である。
「さあ、正直になってごらん。......君が私に嫉妬して、君が私を求めたんだよ?」
退路を塞ぎ、肌を撫で回しながら、郭嘉は残酷なまでの甘い声で降伏を促した。自分自身の嫉妬は暗闇に隠したまま、#name#にだけすべての感情を吐き出させようとしている。それが彼の、意地悪でどうしようもない愛し方なのだ。
じわじわと理性を削り取るような愛撫に抗いきれず、#name#の目から遂に涙が滲んだ。そして、彼の胸元をきつく握り締め、震える声で紡ぐ。
「......そうです......。私が、貴方に嫉妬して......っ、貴方を、求めたんです......」
その言葉が落ちた瞬間。郭嘉の纏っていた張り詰めた空気が、ふわりと甘い熱へと溶け落ちた。彼は満足げに目を細め、夜の闇よりも深く、蠱惑的な笑みを浮かべる。それは、ようやく欲しかったものを手に入れた子供のような、純粋で恐ろしい笑みであった。
「よくできました。ご褒美に、今夜はゆっくり朝まで抱きしめてあげるよ」
郭嘉は#name#の唇を、己のそれで深く、甘く塞いだ。言葉での反論など一切許さない、全てを貪り尽くすような口付け。彼女の細い身体を抱え上げ、書庫の奥深くへと歩みを進める彼の腕は、決して解けることのない鉄の鎖のように強固であった。
窓の外では、厚い雲に隠れていた月が、二人の影を妖しく照らし出している。彼が用意した見え透いた罠に落ちたのは、果たしてどちらだったのか。その答えは、互いの熱に溺れていく甘い夜の底へ、永遠に沈んでいくのだった。