旱魃の夜明け

夜陰が深く静まり返る頃。灯火が揺らめく薄暗い一室には、芳醇な酒の香りと共に、平素の静寂からは想像もつかないほどのけたたましい早口の音声が充満していた。 卓上には無造作に置かれた酒器と、食べ掛けの肴が散乱している。その乱れた卓の前に座す荀攸の顔には、明らかな朱色が浮かんでいた。普段の物静かで感情の読めない姿はとうに消え失せ、熱を帯びた瞳で盤上ならぬ卓上を鋭く睨みつけている。彼は既にかなりの量の酒を煽っており、理性の留め金は完全に外れ落ちていた。 「いいですか#name#殿、よく見てください。この銚子が山で、この箸が川だとしますよね?」 荀攸は手元の酒器を勝手に配置し始め、箸を器用に並べて即席の陣形を作り上げた。その指先は淀みなく卓上を滑り、目にも留まらぬ速さで駒に見立てた器を動かしていく。 「通常ならここに魚鱗の陣を敷いて手堅く中央突破を狙うところですが、それは素人の浅知恵です。俺ならあえて陣を浅く広く構えて、敵の先鋒をこの小皿の地点……つまり谷底まで誘い込む。そして敵が完全に前がかりになって陣形が間延びしたその一瞬、ここに潜ませておいた伏兵で、左右から一気に挟撃して叩き潰すんです。どうですか、完璧でしょう。兵糧の補給線も、この手拭の道を通せば五日は確実に維持できる計算ですし、風向きと湿度の変化さえ読めば火計の成功率は八割を優に超えます。戦というものは盤上の計算ですべて決まると言っても過言ではない、それなのに……」 #name#は「ええ、なるほど」と相槌を打ちながら、彼の異常なまでの熱量にただただ圧倒されていた。陣形を語る彼の眼差しは真剣そのもので、卓上の食器が本当に兵士たちの命運を握る軍配であるかのような錯覚すら覚える。しかし、彼の言葉はそこで不自然に途切れた。直後、荀攸は大きく息を吸い込んだ。それはまるで、今まで腹の底に溜め込んでいた泥のような鬱憤を、一気に吐き出すための予備動作であった。 「だいたい郭嘉殿は、肝心な時に酒を飲んで消えるし、後始末は全部俺に押し付ける。俺の休息時間をなんだと思ってるんでしょう。もっと言ってしまえば、文若殿も文若殿なんです。理想が高すぎて、完璧な策を練るのは結構ですが、あれに付き合わされる現場と俺の胃の痛みを少しは考慮していただきたい……ああ、それから賈詡殿もそうですね。賈詡殿は狡賢くて面倒な仕事を『あとは頼んだ』って俺に丸投げ。あれは絶対わざとやってるとしか思えません。それに満寵殿も。罠の試作が何だかんだとか、新しい絡繰がどうのとか、興味の目が向くところにだけ熱が入り過ぎて身の回りが散らかりすぎている。注意するこちらの身にもなって欲しいですが、恐らく彼には何を言っても無駄でしょうね。皆、俺のことを便利な付き人か何かだと勘違いしてるんじゃないですか」 息継ぎすら忘れたかのような、怒涛の勢いで繰り出される魏の軍師たちへの非難の嵐。あまりの爆速の不満吐露に、#name#は苦笑するしかなかった。   普段から彼がいかに周囲の奔放な才能に振り回され、その後始末という裏方に徹して苦労しているかが痛いほど伝わってくる。自由奔放な天才、理想主義者、老獪な策士、そして絡繰り狂い。曲者揃いの陣営の中で、彼がどれほどの胃の痛みを抱えて平生を装っているのか。#name#はただ静かに頷き、彼の抱える途方もない重圧を労わるように、その紅潮した顔をじっと見つめ返した。そして、同情と慈愛を含んだ#name#の視線と、激しく瞬きを繰り返していた荀攸の視線が、ふいに交差したその瞬間。 さっきまで堰を切ったように言葉を捲し立てていた荀攸の口が、はっとしたように閉ざされた。卓上の食器に向けられていた熱が急激に冷却され、室内に奇妙な静寂が降り下りる。 彼は小さく息を吐き出すと、少しだけ伏し目がちに#name#を見つめた。 「……失礼。見苦しいところをお見せしましたね」 その声は、先程までの早口な調子とは打って変わり、耳の奥を撫でるような低く甘い音へと急降下していた。酒の熱を帯びた吐息が、卓を挟んだ#name#の頬を微かに掠める。 「……でも、俺のこんな愚痴を嫌な顔一つせず聞いてくれるのは、#name#殿だけです。あなたの声を聞いていると……安心するんですよ」 ぽつりと落とされた言葉には、これまでの怒りや不満は微塵もなく、ただ目の前の相手への深い依存と無防備な甘えだけが滲んでいた。破壊力抜群のその声色と、少しだけ潤んだような瞳に見つめられ、#name#の胸の奥が大きく跳ねる。 これ以上彼に酒を飲ませるのは体に障るだろう。そう判断した#name#は、この甘い空気を一度断ち切るように、わざと明るい声を出して立ち上がった。 「はいはい、すっきりしたなら良かった。じゃあお水持ってくるから、少し休んで――」 介抱のために席を立とうと、身体の向きを変えた刹那。鈍い音を立てて、#name#の手首が強引に捕らえられた。普段の鈍重な彼からは到底想像もつかない、俊敏で無駄のない動作。骨が軋むほどの強い力で引き止められ、#name#は体勢を崩して再び座席へと引き戻される。驚いて視線を向けると、そこには先程までのぽわぽわとした酔っ払いの軍師の顔はなかった。  「……待ってください。誰が終わっていいと言いました?」 見上げた先の荀攸の瞳は、夜の闇よりも濃く、深く濁っていた。それは、獲物を完全に網の内に捕らえた捕食者の、暗く歪んだ執着の色。甘えや労しさは鳴りを潜め、己の領域から決して逃がさないという絶対的な意志が、その冷ややかな眼差しに宿っている。   荀攸は#name#の手首を掴んだまま、ゆっくりと身を乗り出し、彼女の耳元へと顔を寄せた。 「あなたは俺専用の話し相手でしょう? ……俺の心の渇きが癒えるまで、朝までだろうと付き合ってもらいますよ」 退路を断つような低い囁きが、肌を逆行に撫で上げ粟立たせる。 外堀を完全に埋められた密室。力強い拘束。そして、彼が発する抗い難い甘い毒。夜はまだ深い。戦術の軍師が仕掛けた逃げ場のない包囲網の中で、朝まで続く延長戦が、今、静かに幕を開けたのだった。