隠れ処の猛獣
宵の帳が静かに下り、深山の木々が風に揺れて重々しい葉鳴りの音を立てている。
戦場の血生臭さや陣中の喧騒から遠く切り離された、静寂だけが支配する山間の隠れ処。その一室で、徐庶はひどく落ち着かない心地と、それを遥かに上回る甘い幸福感に包み込まれていた。卓の上には、#name#が丹精込めてこしらえた温かい手料理が並んでいる。二つの小さな酒器には透明な酒が注がれ、揺らめく灯火の光を反射して琥珀色に輝いていた。
「俺みたいな無骨な男を、こんな美しい場所へ招いてくれるなんて……君は本当に物好きだね」
照れ隠しのように微かに視線を伏せ、徐庶は自嘲気味な笑みを浮かべる。
普段から自己評価が低く、有能な軍師でありながら常に一歩引いた立ち位置を崩そうとしない彼にとって、女性から二人きりの空間に招かれるという事態は、ひどく心を掻き乱される出来事である。ましてや、ここは誰の目も届かない、山深くの隠れ処。#name#という女性が、どのような意図を持って自分をこの場に誘い、手料理まで振る舞ってくれているのか。その真意を都合よく深読みしてしまいそうになる己の浅ましさを、彼は酒と共に腹の底へと流し込んでいた。
#name#は「そんなことありませんよ」と柔らかく微笑み、徐庶の空になった杯へ新たな酒を注ぎ足す。
「今日はゆっくりと、日頃の疲れを癒していただきたくて。それに……徐庶殿と二人で、お話ししたかったんです」
「……ありがとう。君の淹れてくれる酒は、格別に美味いよ」
言葉を交わしながら、隣同士に座る二人の距離は、時が経つにつれて徐々に縮まっていく。他愛のない陣中の出来事や、道中で見かけた季節の草花の話題。穏やかで温かい会話が続く中、徐庶の心は静かに、けれど確実に熱を帯び始めていた。彼女の優しさが心に沁み渡るほど、心の奥底に封じ込めていた仄暗い独占欲が鎌首をもたげそうになる。自分のような、撃剣の使い手として手を血に染め、修羅の道を歩んできた男には過ぎたる愛情だ。そう自分に言い聞かせて理性の鎖を握り締めるものの、隣から伝わってくる彼女の体温が、その鎖を徐々に焼き溶かしていく。
やがて、幾度目かの杯を干し終え、夜も更けてきた頃。ふわりと、心を乱すような甘い香りが徐庶の鼻腔を掠めた。
「……ん…っ…」
微かな吐息と共に、徐庶の左肩に柔らかな重みが沈み込んでくる。見下ろせば、僅かに酒気を帯びて頬を染めた#name#が、彼の肩に己の頭を預けていた。無防備に目を細め、完全に安心しきったように男の身体へと身を委ねるその姿。ただでさえ二人きりの密室に誘い出しておきながら、警戒心など微塵も感じさせないこの不用意な接触は、徐庶の内に眠っていた『男』の本性を劇的に揺り起こす引金となる。
(……据え膳、か)
徐庶の脳裏に、そんな言葉がよぎる。
男を外界から隔絶された隠れ処に呼び出し、酒を酌み交わし、最後には自ら身体を擦り寄せてくる。これが据え膳でなくて何だというのか。彼女にそんな自覚はないのかもしれない。ただ単に酔いが回って、気を許しているだけなのだろう。だが、毒の乗った極上の据え膳を前にして己の欲求を押し殺すなど、男としての矜持が許さない。彼の中で、持ち堪えていた理性の糸が、甲高い音を立てて千切れ飛んだ。
「……#name#」
名を呼ぶ声は、先程までの温厚で控えめな軍師のものとは違う。低く、地を這うような、雄としてのどろりとした熱を孕んだ響きを帯びていた。その声の異変に気付いたのか、#name#が「はい?」と不思議そうに見上げようとする。だが、その視線が交わるよりも早く、徐庶の長い腕が彼女の腰と膝裏にするりと差し込まれた。
「えっ……?」
驚きの声が漏れた瞬間、#name#の視界がふわりと大きく反転した。徐庶は彼女の身体を羽衣のように軽々と抱え上げ、迷いのない足取りで部屋の奥、薄暗い寝台へと歩みを進める。
「わっ……、徐庶殿!? なにを……っ」
慌てて腕の中で身をよじろうとする#name#を見下ろし、徐庶は深く暗い笑みを浮かべる。頭巾を目深に被って自信なさげに俯く、いつもの男の面影はそこには一切存在しない。獲物を捕らえ、その退路を完全に断ち切った肉食獣の、凄絶で色気のある眼差しが彼女を射抜いていた。
「君が悪いんだ、俺をこんなところに呼び付けるから……でも、残念だったね。俺がただの卑屈な男だと思ったかい?」
耳元で囁かれたその言葉に、#name#の背筋をぞくりとした痺れが駆け抜ける。彼の腕は、ただ机に向かうだけの文官や軍師のそれではない。衣装の下に隠された肉体は、撃剣の使い手として裏社会を生き抜き、無数の刃を潜り抜けてきた武芸者の、鋼のように鍛え上げられた筋肉で構成されている。彼が本気で力を込めれば、女の力など容易くねじ伏せられてしまうのだという絶対的な事実が、#name#の身体を拘束する強固な腕力から痛いほどに伝わっていった。
寝台へと辿り着くと、徐庶は抱え上げていた彼女の身体を、柔らかい布の上へと静かに降ろした。逃げ出す隙など一秒たりとも与えない。間髪を容れず、彼の大きな身体が#name#の上へと覆い被さる。月明かりを背にして#name#を見下ろす徐庶の顔には、もはや隠すつもりのない愛執と、昏い独占欲が張り付いていた。
「……君からの誘惑、俺が残さず頂くよ」
紡がれた言葉は、甘く残酷な宣戦布告である。#name#はここに至ってようやく、自身の行動がいかに彼の理性を破壊するものであったかを悟り、顔を真っ赤にして必死の抵抗を試みる。
「ま、待ってください! 私はただ、少し肩をお借りしようと……っ!」
両手で彼の分厚い胸板を押し返そうとするが、まるでそびえ立つ巨岩を押しているかのように微動だにしない。それどころか、徐庶は彼女の細い両手首を大きな片手で易々と捕らえ、そのまま頭上の布地へと縫い付けるように力強く押さえ込んでしまった。さらに、逃れようと暴れる彼女の両脚をも、己の重く逞しい脚で絡め取り、完全にその動きを封じ込める。
圧倒的な体格差と、武人としての底知れない腕力。もはや指先一つ動かすことすら許されないという絶望的な状況に、#name#は息を呑む。彼女の焦りと恐怖、そして仄かな熱を帯びた瞳を至近距離で覗き込みながら、徐庶は薄く、意地悪な笑みの形を作った。
「そんなに暴れて……俺から逃げられると思った?」
獲物の絶望を確かめるかのように、彼の熱い吐息が#name#の震える唇を掠めた。抵抗すればするほど、彼の中に潜む暗い欲求が刺激されていくのが、肌の接触を通して直接伝わってくる。軍師としての明晰な頭脳と、武人としての圧倒的な暴力。その両方を兼ね備えた彼に組み敷かれてしまえば、もはや抵抗など何の意味も持たない。
「……それとも、その抵抗も『据え膳』だったりして。それなら、俺は喜んで喰らうよ」
極限まで低められた、凄みのある甘い声。言い終えると同時に、徐庶は繋ぎ止められた彼女の手首に自らの指を深く絡ませ、ただでさえ塞がれていた退路を完膚なきまでに断ち切る。普段の自己評価の低さや卑屈さなど、すべては世を忍ぶための仮初めの姿に過ぎない。隠れ処という密室で、愛しい女から与えられた極上の『据え膳』を前にして、撃剣の使い手が牙を引くはずもないのだ。
静寂に包まれた夜を支配するのは、理性の枷を脱ぎ捨てた男の熱い吐息と、ただ甘く喰らわれるのを待つしかないという、逃げ場のない快楽だけだった。