摩天楼の兵站
地上数百メートルの高みに位置するホテルのバーラウンジは、都会の喧騒を足元に沈め、まるで星の海に浮かぶ方舟のような静寂を保っていた。深い琥珀色の照明が、重厚な革張りのソファや磨き上げられたカウンターを密やかに照らし出している。その一角、夜景を一望できる特等席に、魯粛はいた。仕立ての良さを一目で分からせるダークグレーのスーツを纏い、太い指先で赤ワインのグラスを揺らすその姿は、周囲の調度品さえも己を飾る小道具に変えてしまうような、圧倒的な存在感を放っている。
そんな彼の隣で、#name#は先ほどから途切れることなく、怒りのままに言葉を吐き出していた。
「......もう、本当に信じられません!あの課長、私が一週間寝る間も惜しんで分析したデータを、役員会議でさも自分が思いついたみたいに発表したんですよ!?それだけじゃなくて、数字の矛盾を指摘されたら『担当の#name#がミスをしまして』なんて......!ミスも何も、その箇所、課長が勝手に書き換えたところなのに!」
#name#は目の前のカクテルグラスを、恨みがましく指先で弾いた。
日々繰り返される理不尽な叱責、実力ではなく社内政治の巧拙で決まる評価、自分より後に不真面目な態度で入社したゴマすり後輩の昇進。真面目に働くことが馬鹿らしくなるような、現代社会という名の泥沼に足を取られ、彼女の心は限界までささくれ立っていた。
そんな彼女の熱っぽく、それでいて悲しげな独白を、魯粛は決して遮ることなく聞き届けていた。彼は時折、低く心地よい声で相槌を打つ。
「ははは、なるほど。お前の苦労を横から掠め取り、あまつさえ盾にまでしたわけか。......それはお前が怒るのも無理はないな。その上司は、随分と無作法な真似をするものだ」
魯粛の言葉は、まるで熱を持った傷口に冷たい水が染み渡るような、絶対的な肯定感に満ちていた。彼は#name#が吐き出す不平不満を『愚痴』として切り捨てない。ひとつひとつの出来事を、彼女の努力の証として正面から受け止めていく。その懐の深さに、#name#は凍えた身体を大きな毛布で包み込まれているような、奇妙な安堵感を覚えていた。
やがて、喉を枯らすほどに不満を吐き出した#name#が、深い溜息と共に肩を落とす。窓の外では、銀河のような街の灯りが明滅していた。
「......魯粛さん、ごめんなさい。せっかくの美味しいお酒なのに、こんな面白くない話ばかりして」
「何を言う。お前が俺を頼ってくれること以上に、面白いことなどそうは無いさ。......さて、お前のその上司だが。彼はどうやら、目先の利益という『局戦地』しか見えていないようだ」
魯粛はワイングラスを置き、静かに#name#の方へと身体を向けた。その瞳は先程までの穏やかさを保ちつつも、どこか鋭い『軍師』の光を堪えている。彼は現代のビジネスシーンを、盤上の戦場に見立てて解説を始めた。
「#name#、お前がこれまで整えてきたのは、仕事全体の『兵站』だ。地味で目立ちはしないが、それがなければ勝利などあり得ない。課長がお前のデータを盗んだのも、彼自身の陣営に戦うための糧食が枯渇しているからに他ならない。......お前の判断は何も間違っていない、誇りを持て」
魯粛はさらに、具体的な策を授けるように声を低めた。
「明日の会議では、あえて提示しなかった別の比較データを『伏兵』として忍ばせておくと良い。課長は恐らく、前回盗んだ成功事例を再び並べ立てて、相手を前がかりにさせるだろう。......そこでお前がそのデータを提示し、多角的なリスクを突き付けてやるんだ。一気に盤面をひっくり返せるはずだぞ」
ただの慰めではない。現実を打破するための論理的で、冷徹なまでの最適解。#name#は目から鱗が落ちるような感覚を覚え、先程までの視界の曇りが、嘘のように晴れていくのを感じた。
「......魯粛さん、ありがとうございます。やってみます。私、まだ戦えます!」
力強く頷き、前を向いた#name#の横顔。それを見つめる魯粛の目元が、ふわりと和らいだ。彼は#name#が気付かないうちに、指先ひとつでバーテンダーへ合図を送り、スマートに会計を済ませてしまう。そして、迷いの消えた彼女の頭を、大きくて温かい手でポンっと、優しく撫でた。
「良い顔になったな。#name#は本当に努力家だが......あまり無理はしてくれるなよ?俺は、お前がボロボロになってまで守るべき陣地など無いと思っている」
魯粛の掌から伝わる確かな熱が、#name#の心臓を激しく揺さぶる。彼が向ける慈しみは、時に親のようであり、時に兄のようであり、そして決定的に、ひとりの男としての色気を孕んでいた。
「もしそれでも手に負えないようなら、俺が直々にその上司と『交渉』しに行ってやる。お前の会社を丸ごと買い取るか、あるいは......まあ、お前に心配をかけるような真似はしない。その時は、遠慮なく俺を頼ってくれ」
冗談とも本気ともつかない、圧倒的なスケールの言葉。『濁りのある世界』を感じさせるその発言に、#name#は思わず小さく吹き出した。
魯粛は満足げに微笑むと、彼女の肩を抱くようにして椅子から立ち上がらせた。
「さあ、明日も早いんだろう?夜道は奇襲に遭いやすいからな。......安心しろ、家まで送ってやる」
ホテルのエントランスには、漆黒の塗装が鏡のように輝く、重厚な英国製の最高級セダンが横付けされていた。魯粛がスマートにドアを開け、#name#を後部座席へとエスコートする。滑り出した車内は、革の匂いと魯粛の纏う香水の香りが溶け合い、外界とは遮断された贅沢な個室へと変わった。
車窓を流れる都会の夜景を眺めながら、#name#はそっと己の手を、隣に座る彼の大きな手の上に重ねた。魯粛はそれを拒むことなく、力強くも優しい加減で握り返してくる。明日からの戦いに備え、最高の軍師という後ろ盾を得た彼女は、深い安らぎの中で静かに目を閉じるのだった。