踏台に沈む英才
天を衝くように聳え立つ峻険な山々の合間に、血と泥、そして容赦なく吹き荒れる土埃の匂いが重く立ち込めている。
両軍の戦旗が風に揺られて激しく翻る中、魏の陣営では若き英才が自信に満ちた笑みを浮かべていた。鍾会である。己の肉体を形取ったような細身な甲冑を身に纏い、その背後には宙を自在に舞う飛翔剣が静かに従っている。彼にとって、この薄汚れた戦場など、己の圧倒的な才覚と華麗なる武技を誇示するための舞台に過ぎない。才気に溢れる己こそが常に中心にあり、他者はすべて己を引き立てるための背景であると、彼は微塵の疑いもなく信じていた。
彼は不遜な眼差しを斜め下へと向け、同じく軍議の場に居合わせていた#name#を鼻で笑う。
「凡愚の貴様は、向こうの砦で適当に敵を引き付けておけ。私が本陣を落として一番手柄にしてやる」
それは軍略の指示というよりも、弱者への施しを気取るような傲慢な宣告である。彼から見れば、#name#など己の輝かしい戦歴の飾りにすらならない端役の一人に過ぎないのだろう。相手がどのように受け取るかなど意にも介さず、彼は流し目で#name#を見下ろしている。しかし#name#は、その露骨な侮蔑の言葉を浴びせられても、表情一つ変えることはなかった。内心で冷ややかに舌を出していることなど微塵も悟らせず、ただ恭しく一礼して「御意のままに」とだけ返す。鍾会は、彼女が己の威光に平伏したのだと満足気に頷き、飛翔剣を翻して意気揚々と出陣していった。
彼の背中を見送る#name#の瞳の奥に、獲物を狙う狩人のような昏い光が宿っていたことなど、その時の誉れ高き英才は知る由もなかった。
開戦の銅鑼が重々しく鳴り響くと同時、鍾会は自らの目論見通りに敵の本陣へと向けて派手な進軍を開始した。彼の操る複数の飛翔剣は空を鋭く裂き、瞬く間に銀色の刃の雨となって敵兵を次々と薙ぎ払っていく。血飛沫が舞う中であっても彼の纏う空気はどこまでも気高く、戦塵の中でも一際目を引く洗練された装束は、戦場において嫌でも敵軍の目を引きつける。結果として、敵将の注意と戦力の多くは、完全に彼一人へと集中することとなった。
鍾会自身はそれを「私の圧倒的な脅威に敵が恐れ慄いているのだ」と解釈し、さらなる猛攻を仕掛けていた。
しかし、それこそが#name#の描いた盤面であった。
鍾会が己の武勇を誇示し、敵の防衛網が彼に向かって大きく偏ったその間隙を縫うようにして、#name#の率いる少数の別働隊は険しい間道を音もなく進んでいたのだ。生い茂る草木に身を潜め、誰にも気付かれることなく敵の背後へと回り込む。そして、本陣の護りが手薄になったその決定的な瞬間、#name#は静かに刃を振り下ろした。結果として、敵の総大将の首はあっさりと#name#の手に落ちる。戦は、鍾会が本陣に辿り着き、一番手柄を上げるよりも遥かに早く、唐突な幕切れを迎えることとなった。
戦後、司馬昭を筆頭とした将が集う本陣の幕舎にて、各々の戦果を報告する軍議が行われた。諸将の視線が集中する中、#name#は晴れやかな笑顔を浮かべて声高らかに口を開く。
「鍾会殿の素晴らしい『陽動』のおかげで、私が大将首を取れました!」
その言葉が響き渡った瞬間、幕舎の空気が奇妙に揺らいだ。司馬昭は感心したように「へぇ、あの目立ちたがりの鍾会が自分から囮を買って出たのか。見事な連携だったな」と屈託なく笑って#name#の戦功を称賛している。その傍らで、一番手柄を確信して意気揚々と帰陣していたはずの鍾会の顔から、急速に血の気が引いていくのが見えた。己が、あろうことか見下していた女の「囮」として利用されていたという耐え難い事実。その絶望的な屈辱を徐々に理解した彼の端正な顔は、すぐさま怒りでどす黒い朱色へと染まっていく。ギリッ、と奥歯を強く噛み鳴らす音が、#name#の耳にはどんな調べよりも心地よい音楽のように響いていた。
軍議が終わり、#name#が自身の薄暗い陣幕で武装を解いていた時のことである。布擦れの音をかき消すほどの荒々しい足音と共に、天幕が乱暴に引き剥がされた。
「貴様!この私を囮に使って踏み台にしたな!!」
陣幕の中へと踏み込んできたのは、肩で激しく息をする鍾会であった。彼の美しい顔立ちは怒りによって無惨に歪み、その双眸には刺すような敵意が燃え盛っている。
かつて彼が#name#の私室を訪れた時のように、自信満々に距離を詰めてくるその様は、本来であれば相手を畏縮させるだけの十分な威圧感を持っている。しかし、今の#name#にとっては、罠にかかって吠え猛る見目麗しい獣にしか見えなかった。鍾会がさらに罵声を浴びせようと顔を近づけてきた、その刹那。#name#の白い手が蛇のように鋭く伸び、彼の手入れされた柔らかな後ろ髪をガシッ、と強く掴み取った。
「いっ!?痛い!やめろ貴様、私の髪を……ッ!」
力任せに下へと引っ張られ、鍾会の長身が強引に屈まされる。抗う間もなく頭を下げさせられた彼は、鋭い痛みと予期せぬ事態への混乱で目尻に微かな涙を浮かべていた。普段の傲岸不遜な態度からは到底想像もつかないほど、その姿は無防備で脆い。#name#は勝者の余裕をたっぷりと含んだ冷ややかな微笑を浮かべ、屈服した英才の耳元へと顔を寄せる。
「だって、あなたのように賢くて自尊心の高い男を手玉に取るのが一番確実で……最高に気持ちよかったから。これからも私の優秀な『踏み台』として、その才能を存分に見せつけてね?」
甘く、そして残酷な毒を含んだ囁きが、鍾会の鼓膜を直接震わせる。それは彼の尊大な自尊心を根底から粉砕する言葉であった。しかし、己を完全に見下し、意のままに支配しようとする彼女の冷酷な瞳を至近距離で覗き込んだ瞬間、鍾会の胸の奥で得体の知れない熱が弾けたのだ。
怒りと屈辱で身体が震えているはずなのに、女に髪を掴まれて見下されるこの状況に、抗いがたい背徳的な快楽がじわじわと混じり始めている。彼自身も到底理解できない未知の感情に呑まれ、その顔は瞬く間に熟れた果実のように真っ赤に染まっていった。息は荒くなり、瞳孔は微かに見開かれたまま、彼女から視線を逸らすことができない。
「踏み台にされる気分はどう?もっと上手く動いてくれたら、私はもっと大きな戦果をあげられたんだけどね」
#name#はさらに言葉の刃を容赦なく突き立て、彼の自尊心を徹底的にこき下ろしながら、その美しい顔が屈辱に歪む様をひどく満足げに眺めていた。鍾会はわなわなと唇を震わせるだけで、言い返す言葉を見つけることができない。己の並外れた才覚が、単なる女の駒として機能していたという事実を突きつけられ、彼の強固な自我は音を立てて崩れ去っていた。
完全に意気消沈し、反抗の意志すら失いかけている鍾会。すると、#name#は不意に髪を掴む手の力を緩め、そのまま彼の頭を優しく撫でた。
「でも、囮としては百点満点だったわ。よく頑張ったわね」
先程までの冷酷な態度が嘘のように、甘い慈愛を孕んだ声が降り注ぐ。極上の鞭と、それに続く甘露。激しい落差のある扱いを受け、鍾会の理路整然とした頭脳は完全に焼き切れていた。
己を踏み台にした憎き相手であるはずなのに、頭を撫でられると奇妙な安堵感が全身を駆け巡る。彼はただ荒い息を吐きながら、#name#の衣の裾を力なく握りしめることしかできない。誉れ高き英才が、一人の女が仕掛けた甘い罠に堕ち、完全なる屈服の快楽へと沈んでいった夜であった。