箱入り娘
曹魏の法を司り、最前線を守護する重鎮。満寵という男の頭脳は、常に常人の理解の及ばぬ遥か高みで、精緻な歯車が噛み合うように回転し続けている。その才覚が遺憾なく発揮されるのは、決して血生臭い戦場や、冷徹な裁きを下す法廷の場だけではない。
分厚い雲に遮られたかのように、陽の光すら満足に届かぬ廃倉庫。そこに澱む空気は、長きに渡り打ち捨てられてきた無数の年月を物語るように重苦しく、肺腑を満たすのは長年積もった埃の乾いた匂いと、腐食しつつある湿った木材が放つ饐えた芳香だ。不要品として廃棄された古い絡繰りや、用途すら分からぬ廃材が山のように積まれた空間の中央。そこはまるで墓場のような静寂に包まれていたが、曹魏が誇る酷吏だけは、酷く上機嫌に床へ這いつくばるようにしゃがみ込んでいた。
真っ白な羽織の裾が、汚泥の如き黒い砂に塗れているのもお構いなし。満寵の整った顔立ちには、まるで新しい玩具を与えられた童子のような、へらりとした締りのない笑みが浮かべられている。はだけた胸元から覗く武官の厚い胸板にも、薄っすらと木屑が降り注いでいる有様だ。正確な指先が、幾つもの木片と歯車を器用に組み合わせ、カチリ、カチリと小気味良い音を立てて繋ぎ合わせてゆく。
その凄惨なまでに汚泥と廃材に塗れた環境と、彼の纏う冷徹な軍師としての洗練された品格が、背筋が粟立つほどに酷くちぐはぐな情景を作り出している。満寵の瞳は、目の前の獲物をいかに美しく、そして確実に絡め取るかという思考に完全に支配されていた。周囲に散乱する設計図の束は、全て彼女をこの狭い空間へと閉じ込めるための計算式で埋め尽くされている。
墨の滲んだ紙片が、風もないのに微かに揺れ動いた。
「......満寵殿。あの、折角のお召し物が汚れてしまいますよ?」
倉庫の入口付近で、見張り役のように立たされていた記録官の#name#は、堪えきれず呆れ混じりの溜息と共に指摘した。主の無頓着さは今に始まったことではないが、流石に限度というものがある。しかし、当の満寵は手を止めること無く、和やかな目元をふわりと細めてみせた。
「ん?ああ、別に構わないよ。これくらい、どうということはないさ。汚れたら、洗えばいいだけだからね」
事も無げに飄々とした口調で言い放つその横顔に、#name#は言葉を失いかける。
「......誰が洗うのですか、それ」
思わず口を突いて出た鋭い指摘。満寵のような高位の将であれば、身の回りの世話をする使用人は幾らでも居るはずだ。それにも関わらず、彼は手を休めること無く、わざわざ#name#の顔を見上げてひどく嬉しそうに目を弛ませた。
「おや、それは随分と意地悪な質問だね、#name#殿」
その声色は波一つ立たぬ水面のように落ち着いていながら、ひたひたと足元から忍び寄るような重い圧迫感を伴っている。穏やかだった満寵の瞳の奥底に、一瞬だけ鋭い『男』の光が明滅したのを見逃すことはできなかった。
意地悪な質問。その言葉の裏に隠された真意に気付き、#name#の背筋を冷たいものが駆け抜ける。
これから目の前で組み上げられるこの罠に捕らえられ、彼の屋敷で、彼の所有物として共に暮らすことになる。ならば当然、その衣を洗い、身の回りの世話をするのは#name#自身ではないか――。
彼が口にしたのは、単なる軽口ではない。圧倒的なまでの確信に満ちた、抗うことの許されない未来への布石。声に出さずとも雄弁に語るその微笑みに、喉が引き攣る。逃げ出したいという本能が警鐘を鳴らすものの、蛇に睨まれた蛙のように、足は一歩も動かすことができない。恐るべき思考回路を持つこの軍師の前では、些細な抵抗など全て冷徹な計算の内に組み込まれてしまうのだ。
「私の屋敷の者たちは優秀だけれど、やはり私の身の回りのことは、最も信頼できる者に任せたいというのが本音でね。君が淹れてくれる茶や、君が整えてくれる衣に包まれて過ごす日々は、きっと何よりも得難い究明の場になるだろう」
独り言のように紡がれる言葉は毒のように甘く、恐ろしいほどに重い。
満寵の手元では、着々と異様な形状の木箱が組み上がってゆく。それはどう見ても、獣を捕獲するための檻ではない。高さ、幅、そして内側に仕込まれた柔らかな拘束具の位置まで、全てが目の前に立つ#name#の体格に誂えたように合致している。あろうことか彼は、標的である彼女の目前で、彼女を捕らえるための専用の物理的な絡繰りを嬉々として錬成しているのだ。
「もう少し強度を持たせるべきかな。いや、君の柔らかな肌を傷付けるような造りにしては、元も子もないね」
楽しげに鼻歌すら交えながら、彼は内側の留具に滑らかな布を巻き付けてゆく。狂気とも呼べる執着心が、精巧な指先の動きから止めどなく溢れ出していた。木材を削り、嵌め込み、歯車を噛み合わせる。時折、小さな部品が床に転がり落ちるが、それを拾い上げる所作すらも流れる舞のように優雅だ。
複雑に絡み合う歯車の一つ一つに、底なしの沼のような深い情愛と執着が込められているのが手に取るように分かる。新しい木材が削られるたびに、古びた埃の匂いの中に、青々しい木の香りが混じり合う。ギギギ......と、仕掛けを試運転させる音が響くと、#name#の心臓は大きく跳ね上がった。彼の罠には、常に一片の隙もない。法という名のもとに張り巡らされた鋼の網目は、藻掻けば藻掻くほどに標的をきつく締め付けるのだ。
息をする間も惜しむかのように、見事な速度で罠箱が形作られてゆく。#name#が必死に抵抗の言葉を探している間にも、彼は微塵の躊躇いもなく最終工程へと取り掛かっていた。世間話の余韻が、埃っぽい空気の中にまだ漂っている。その静寂を切り裂くように、一際高い金属音が響き渡った。
ガチャンッ!!
最後にして最大の鍵穴が、寸分の狂いもなく見事に噛み合った音だ。それは同時に、#name#の逃げ道を完全に塞ぐ、無慈悲な宣告の鐘のようでもある。
「うん、素晴らしい出来だ。我ながら完璧な設計と言えるね」
満寵は満足げに立ち上がると、羽織についた土埃を掌で軽快に払い落とした。はだけた胸元を直す気配すら見せず、彼はゆったりとした足取りで#name#の正面へと歩み寄る。長身から見下ろすその視線には、揺るぎない確信と、底知れぬ慈愛のようなものが混在していた。
「さあ、完成したよ。#name#殿にぴったりの、専用の罠箱だ。試しに、中に入ってみてくれないかい?」
彼は片手を差し出し、この世で最も美しい花でも手渡すかのように、極上の笑顔を咲かせる。それは提案という仮面を被った、絶対の命令に他ならない。返事の余地を与える問いをぶつけておきながら、差し伸べられた手は拒絶を許さぬ強さで彼女を導こうとしている。彼に手首を掴まれた瞬間、その強固な意思に全てを悟る他なかった。優しく、けれど決して逃れることの出来ない法という名の見えない鎖が、彼女の全身に絡みついてゆく。
促されるままに、鉛のように重く震える足を前へと踏み出せば、精緻を極めた絡繰り仕掛けの扉が、背後で重々しい木の音を立てて冷酷に閉ざされる。
「ああ、やはり私の見立てに狂いはなかった。君の身体に誂えたように馴染んでいるね。......これからも末永く、私の傍で君を究明させてもらうよ」
格子越しに覗き込んでくる満寵の顔は、今日一番の愉悦に満ちていた。そして、カチリ、と外側から最後の鍵が掛けられる。薄暗い倉庫の中で、彼の心底楽しげな笑い声だけが、いつまでも反響していた。