契約満了
いつもなら、その男は羽毛のように軽くそこに腰掛けるだけだった。
陽気な顔で飄々と笑い、隣に座る女の髪を優しく指先で弄る。それが彼のーー馬岱のすべてだった。けれど今、二人を包む空気は高温に巻かれながら沸騰している。
「ねえ、#name#。いつまで待たせるつもり?」
ソファのレザーが大人二人の体重を支え、繊維が張り裂けそうな悲鳴を上げている。下敷きになった#name#は、彼の突然の豹変に抵抗を試みようと、汗ばむ掌を座面に深く沈み込ませた。彼女の伸びた爪がレザーを引っ掻き、馬岱の膝が中身のウレタンを押し潰す。いつもは掴みどころのない彼の、本能を剥き出しにした質量。彼女の細い手首を座面に縫い付ける手の平は、容赦のない熱さだった。
「俺はこんなに君を求めてるのに。まだ足りない?」
「……足りないとかじゃなくて……、こ、心の準備がまだ……っ!」
「へえ。心の準備ねぇ?……もう何度も俺を受け入れてきたじゃない。今更そんなこと言われても、全然説得力ないよ?……ああ、それとも……ただ、俺を焦らして遊んでるだけかな?」
意地の悪い問い掛けが#name#を追い詰め、馬岱は精神的にも物理的にも優位な立ち場を得た。やがて激しく擦れ合う衣服の音が耳元で止んだかと思うと、ボタンが床に転がる硬い音が、静かな部屋にやけに大きく響く。その刹那、ふっと重力が消えた。残されたのは、深く凹んだままのクッションと、微かに残る二人の甘い余韻だけ。去り際、馬岱が自身の唇を艶っぽく舐め上げたが、その瞬間に覗いた赤い舌は、悪魔の果実のように強烈な色気を放っていた。
縺れ合う二人裸足の足音が、フローリングを不規則に揺らす。互いの存在を確かめ合うような、遮るものを全て剥ぎ取っていくような、衣類が床に滑り落ちる乾いた音が二度、暗闇に溶けた。
「もしかして、緊張してる?」
「す、するよ!焦らしてるとか言われたら、余計に……」
「ごめん。でも、君がそうやって可愛いらしい反応するから、つい困らせたくなっちゃうんだよねぇ。許してくれる?」
その発言の後、彼女の返答を待たずして、ドサリ、と頭上のマットレスが大きく沈み込み、フレームの接合部が小さく悲鳴を上げた。馬岱は、#name#の素肌を隠している布という布を剥ぎ取り、そして、自らも一切躊躇うことなく引き締まった裸体を晒す。二人はシーツの上で全ての服を脱ぎ捨てたが、物理的な荷重は何ら変わらない。だが、男女の濃厚な吐息と、興奮の塊が合わさって、ベッドの上の欲望は更に重量を増したようだ。いつもなら静かに夜の眠りを受け入れるだけの場所。しかし今、ここを軋ませているのは、普段の彼からは想像もつかないほど、苛烈な性の衝動だった。
「……俺に抱かれるのは、これで何回目だっけ?」
上から降ってくる彼の声音は、いつもよりずっと低く、閻魔のように意地悪な余裕に満ちている。#name#を組み敷いた馬岱は、彼女の手首に己の指先を這わせ、そのままシーツの海に沈めた。両手を固定された彼女は、恥ずかしそうに顔を赤らめながら横を向くことしか出来ない。目を合わせてしまえば、あとは狩られるのを待つのみ。
「……何回目とか……そんなこと聞かないでよ」
「そうだねぇ……野暮な質問だったかな?」
愉快そうにケラケラと笑う、馬岱の静かな声。それが二人の間に溶け切って消えたのを合図に、彼はシーツの上で片膝を滑らせた。逞しい膝に巻き込まれたシーツが、#name#の湿った肉壷に押し当てられて濃い染みを作る。しかし彼は構わず膝を捩じ込み、感度の良いところを執拗に刺激し続けた。
足元から這い上がる快感の波に、#name#は歯を食いしばりながら耐え忍んだ。肉芽を潰される度に駆け抜ける、電流のような甘い麻痺感覚。腹の奥底から絶頂を誘い出してくる技量。昏い色を宿しながらも爛々と輝く男の瞳。擦り合わせた素肌に染み込む互いの汗。二人を包む、濃霧のような性の匂い。馬岱が#name#を深く、濃く貪るたびに、ベッドが激しく揺れた。
二人が肉体関係を持ち始めたのは半年前ほど。失恋のショックで落ち込んでいた#name#が、「気分転換しよう!」と会社の同僚に誘われて参加した合コンがキッカケである。楽しいはずの酒の席で、一人端っこの方で終始暗い顔をしていた彼女に、真っ先に声を掛けたのが馬岱であった。彼は、#name#の話に親身に耳を傾け、肯定し、慰め、全てを受け止めた。彼女にとって、彼は暗闇を劈く流星のような存在。#name#は、沈みきった心に差し込んだ救済の光を、藁にもすがる思いで掴んでしまった。しかし、失恋の傷は癒えていない。ゆえに、彼女は馬岱からの告白を拒んだ。ただの友達として側にいてくれたら、それでいい。#name#は健全な友情を望んだが、そんな生温い関係など、一度の過ちで崩壊する。たった一回、されど一回。同じ布団で寝てしまえば、『健全』などという言葉は簡単に沼底に沈んだ。一度の成功体験に味を占めた馬岱は、それ以降も#name#の裸を何度も抱き、その度に等身大の愛を囁いては 『正式な』交際を持ち掛けた。
なかなか首を縦に振らない彼女に屈することなく、彼が素直な想いを伝え続けて至る今日。馬岱の我慢が限界に達したのか、この中途半端な関係にも遂に終止符が打たれようとしていた。
「大好きだよ、#name#。……けど、今日も頷いてくれないなら、君に『好き』って言うのも、これで最後にするよ」
控えめに笑いながら、馬岱が身体を退く。#name#の身体を駆け巡っていた刺激が突然に途絶え、二人の間に一瞬の沈黙が落ちた。だが、直ぐに#name#の細い手が、離れゆく彼の腕を掴む。そして、その腕を思いっきり己の方へと引き寄せた。
「……待って。……優しく、してくれる?」
その言葉は、彼女の精一杯の意思表示だった。これまで、行為を誘う言葉など、一度たりとも自分から言ったことのない#name#にとって、それは尋常ではない勇気を要するもの。しかし、彼との関係そのものを失ってしまうのではないかという不安に駆られた結果、無意識に手が伸び、唇が動いていた。
「それって……そういうことだよね?」
馬岱の言う『そういうこと』が『正式な男女交際』を意味することを、#name#は分かっていた。彼女は、全てを分かった上で、彼を真っ直ぐに見つめて頷いたのだ。これは、明確な『承諾』の合図である。馬岱は#name#の意思を確認すると途端に目の色を変え、半年分の熱情をぶつけるように、彼女の両脚の間に己の下半身を深く落とし込んだ。
「優しく、ねぇ。……保証はできないけど、善処するよ」
低く囁く彼の声が#name#の鼓膜を甘く震わせ、聴覚に心地良い波が立つ。馬岱はフッと妖しく笑い、太く起立した陰茎を彼女の濡れそぼる壷口にピタリと擦り当てた。ほんのり赤くなった亀頭が、先走る精液でぬるりとした質感を伴いながら、狭い入口を的確に捉える。そして、収まるべき鞘を探り当てたそれは、窮屈な肉壁を無理やりに押し広げながら#name#の中を蹂躙し、やがて最深部である子宮口にぶつかった。
「さあ、全部入ったよ。……これで、 『都合の良い愛人ごっこ』は今日でお終い。これから君は、俺だけのものだ」
愛おしそうに#name#の頬を撫でる手付きは、これまでのどんな愛撫よりも優しかった。ゆっくりと腰を揺らし始める、高揚した馬岱の性的な表情は、彼女の興奮を煽り立てるには十分すぎるほど脳髄を焼き尽くす。もう、#name#の中に半年前のような迷いは何もない。『好都合な愛人』という中途半端な契約は、今日、お互いの合意の上に満了を迎えたのだった。