鋏の中の独占欲
都内の一等地に店を構えるその人気サロンは、磨き上げられた巨大なガラス張りの外観から眩いばかりの光を放っていた。一歩足を踏み入れれば、柔らかな間接照明が広々とした店内を温かく包み込み、心地よく響くアンビエントミュージックが都会の喧騒を忘れさせてくれる。洗練された空間の中で行き交うスタッフたちは皆一様に華やかな出で立ちだが、その中でも一際目を引く存在がいた。
凌統。それが、彼の名前である。
#name#にとって、ここで過ごす時間は一ヶ月間仕事を頑張り抜いた自分への、何よりの褒美であった。新規の指名予約を取る事すら困難なカリスマ美容師である彼は、今日も気怠げな色気を纏いながらハサミを握っている。右目の下にある泣き黒子が、店内の淡い光を受けて妖しく艶めいていた。
「……また髪傷んでる。ちゃんとトリートメントしろって、先月も言ったよな」
鏡越しに呆れたような視線を向けられ、#name#は思わず肩を竦める。口から突いて出るのは容赦のない小言だが、その手つきは驚くほどに優しい。靱やかな指先が、#name#の傷んだ毛先を梳くように滑っていく。他の客に対するビジネスライクな触れ方とは明らかに違う、まるで壊れ物を慈しむような愛おしげな手つき。その微かな体温が頭皮越しに伝わってくるだけで、#name#は胸の奥が甘く痺れていくのを感じていた。
「すみません……最近、仕事が立て込んでいて、ついヘアケアをサボってしまって」
「言い訳は却下。せっかく綺麗に伸ばしてんだから、もっと大事に扱えっての」
フッと吐息混じりに笑う声が、耳朶を優しく撫でる。その甘やかな響きに、胸の鼓動が不規則に跳ね上がった。
やがて、シャンプーを終えた#name#の髪に、軽快なハサミの音が響き始めた。銀色の刃が光を反射し、シャキ、シャキと小気味良いリズムを刻んでいく。鏡越しに見つめ合う距離感は、近くて遠い。他愛もない会話を交わしながら、#name#はふと、最近の出来事を口にした。
「そういえば最近、職場の同僚に新しいプロジェクトの仕事を教えてもらってて。すごく親切な人で、助かってるんです」
その瞬間。流れるような手つきで動いていた凌統のハサミが、ピタリと空中で静止した。
「……へぇ。随分と親切な奴がいるんだな」
周囲の喧噪が遠のき、急に空気が冷え込んだような錯覚に陥る。凌統の声のトーンが、先程よりも一段低く沈んでいた。鏡越しに映る彼の瞳を見つめ返し、#name#は思わず息を呑む。いつもは気怠げに細められているはずの双眸が、今は酷く暗い光を宿して据わっている。それはまるで、自らの陣地に踏み込んだ外敵を決して許さない猛将のような、あるいは獲物の横取りを許さない狩人のような、鋭く冷たい眼差しである。
「あの、えっと……ただの仕事仲間、ですよ?」
「分かってるよ。俺が何か言ったか?」
低い声で短く応じると、彼は再びハサミを動かし始める。しかし、その手つきには先程までの和やかな空気はなく、どこか苛立ちを孕んでいるようにも見えた。刃が髪を切り裂く金属音すら、先程より鋭く響く気がする。もしかして、変な事を言って怒らせてしまったのだろうか。気の利かない発言を激しく悔やみながら、#name#はハラハラと鏡越しの彼を盗み見る事しかできない。
少しの緊張感を孕んだ沈黙が落ちたまま、施術は最終段階へと移行していった。ドライヤーの温風がふわりと髪を揺らし、凌統の指先が器用に毛流れを整えていく。手際よくヘアオイルを馴染ませ、最後にスプレーを吹きかけると、彼はふう、と小さく息を吐いた。
「はい、お疲れさん。これで良いだろ」
鏡の中に映るのは、見違えるように艶を取り戻し、美しく整えられた自分の姿。その完璧とも言える仕上がりに、#name#の顔にパッと満面の笑みが咲き広がる。
「わぁ……! 今日もありがとうございました! 凌統さんのカット、本当に魔法みたいです。これでまた一ヶ月、仕事を頑張れます。また来月、よろしくお願いしますね!」
喜びのあまり、深く考えず口にした言葉。だが、その『来月』という単語が、彼の導火線に火を付けたことなど、#name#が知る由もない。あと三十日も会えないという現実が、彼の中でギリギリの均衡を保っていた『何か』を決定的に壊してしまったのだ。
「……」
凌統は無言のまま椅子の背もたれに両手をかけると、逃げ道を塞ぐように、背後から#name#の身体にグッと覆い被さった。
「え、あの……凌統さん?」
驚いて振り返ろうとした#name#の耳元に、彼の端正な顔がすり寄るように近づいた。他の客や、忙しなく動くスタッフたちには絶対に聞こえない、二人だけの死角。結い上げられた彼の髪からこぼれ落ちた前髪が、#name#の頬を微かに掠めた。
「……なあ、アンタ。いつも『また来月』って簡単に言うよな……」
低くて、擽ったい声。指先で#name#の毛先を弄びながら紡がれる言葉には、これまでずっと抑え込んできた隠しきれない独占欲が、ねっとりと絡みついている。
「俺は月一じゃなくて、毎日会いたいんだけど」
心臓が、跳ねるどころか完全に停止したかと思った。耳の奥に直接注ぎ込まれた甘く危険な囁きと、首筋にかかる熱い吐息に、全身の血が沸騰する。息の根を止められたように固まる#name#を他所に、凌統はパッと身を離した。
「……はい、終わり。忘れ物ないように。受付で待ってな」
腰を伸ばした彼の顔には、いつもの気怠げなビジネススマイルが貼り付いている。しかし、よく見ればその口元は僅かに引き攣っており、何より雄弁に彼自身の動揺を物語っていたのは、ハッとして鏡を見た#name#の視界に飛び込んできた、その姿である。なんと、凌統の耳の裏から首筋にかけてのラインが、隠しきれないほど真っ赤に染まり上がっているではないか。
(えっ……照れてる……!?)
あんなに心臓に悪い台詞を吐いておきながら、言った本人の方が限界を迎えている。その不器用で愛らしい事実に気付き、#name#の顔まで一気に林檎のように赤く染まった。破裂しそうな心臓を必死に抑え込みながら、#name#は逃げるような早足でフロントへと向かう。
煌びやかな受付スペースには、既に次の予約客がソファに腰掛けていた。派手な巻き髪に、露出の多い服を着た可愛らしい女性客。彼女はバックヤードから出てきた凌統の姿を認めるなり、パッと顔を輝かせた。
「はい、領収書。……帰り、気をつけてな」
凌統はフロントカウンター越しに#name#の前に立ち、ぶっきらぼうな手つきでレシートを差し出す。#name#は震える手でそれを受け取ると、表の印字に薄っすらと映る文字を見つけた。レシートを裏返してみれば、そこには見慣れぬ英数字の羅列――彼の個人のLINE IDと、乱雑な字で『家着いたら連絡しろよ』というメッセージが書き殴られている。
「あ、ありがとうございました……!」
限界を迎えた脳の処理能力を振り絞り、#name#はパニック状態のまま深くお辞儀をして店を飛び出した。自動ドアが開き、外の冷たい空気が火照った頬を撫でる。ドアが完全に閉まりきる直前、#name#はたまらず店内をチラッと振り返った。
「凌統さんお待たせ〜! 今日どうしよっかな、オススメある!?」
次の客である女の子が、弾むような声で凌統にテンション高く話しかけている。しかし、凌統の態度は先程までの熱を帯びた様子とは全く打って変わっていた。
「あー……いらっしゃい。……何でもいいよ、座れば」
そこには、#name#に見せていた重たい執着も、照れ隠しの赤面も、微塵も残っていない。ただ虚空を見つめるような『死んだ魚の目』をした、温度差の激しい完全ビジネス塩対応男が立っているだけだった。#name#の姿が見えなくなった途端に、テンションが最低値まで振り切れてしまったのだろう。やる気ゼロモード全開になっている彼の姿に、#name#は思わず吹き出しそうになるのを堪え、手の中のレシートをギュッと大切に握りしめた。