凡愚の美術品

洛陽の城下町は、今日も溢れんばかりの活気と喧騒に包まれている。大道を行き交う人々の波は途切れることがなく、軒を連ねる出店からは、香ばしく焼ける肉の脂や、鼻腔を擽る異国の香辛料の匂いが絶え間なく漂ってくる。商人の威勢の良い掛け声と、客の熱を帯びた値切り交渉の声が交錯するその熱気の中で、私は一人、周囲の騒々しさから切り離されたように息を潜め、ある一点だけをじっと見つめ続けていた。 人混みの隙間を縫うようにして送る視線の先。そこには、魏の軍を束ねる冷徹無比な大軍師、司馬懿様のお姿があった。紺藍を基調とした豪奢な長衣を身に纏い、その裾を静かに翻して歩むお姿は、周囲の雑踏とは完全に無縁の空気を放っている。鋭い眼光を隠すように伏せられた長い睫毛、雪のように白く滑らかな肌、そして微かな弧を描く形の良い唇。それはまるで、当代随一の職人が己の持てる技術の全てを注ぎ込み、生涯をかけて彫り上げた白玉の彫刻のように、冷たく、そして完璧なまでの美しさを誇っていた。 「ああ、今日も司馬懿様はお美しい......。まさに天が二物を与えた、この世の傑作だわ」 私は出店の影に身を隠しながら、心の中で両手を合わせ、熱い溜め息を吐き出した。私がこの洛陽の片隅に暮らす、しがない町娘であることなど、百も承知である。身分違いも甚だしく、あの恐ろしい権力を持つ大軍師様とお近付きになれる機会など、一生に一度として巡ってくるはずもない。だが、私にとってそんなことは些末な問題であった。 私にとっての彼は、ただ遠くからその神々しい御尊顔を眺めるだけで、日々の単調な労働の疲れを完全に吹き飛ばしてくれる、極上の美術品に等しいのだ。素晴らしい美貌を無賃で拝み、明日を生き抜くための心の滋養をたっぷりと補給する。それが私なりの、最も贅沢な彼の愛で方であった。 その日もいつものように、私は物陰から堂々と熱い視線を送っていた。彼の歩みに合わせて首を動かし、その一挙手一投足を脳裏に焼き付けようとしていた矢先のことである。ふと、氷の刃のように鋭い眼光が、群衆を飛び越えてこちらを真っ直ぐに射抜いたような気がした。ドキッと、心臓が胸の奥で激しく跳ね上がる。 「おっと、穴が開くほど見つめすぎたかしら。流石に気付かれたかも......」 私は素早く身を翻し、大道の賑わいから外れた、人通りの少ない薄暗い路地裏へと逃げ込んだ。埃っぽい土壁に背中を預け、大きく息を吐き出す。あの氷のような視線に見咎められ、不審者として捕らえられでもすれば、ただの町娘とて無事では済まないだろう。 「......よし、ここまで来れば追っては来ないよね。うん、大丈夫だわ」 早鐘のように打つ胸を撫で下ろし、安堵の溜息を漏らした、まさにその瞬間。バサッ、という鋭くも重い音が、私のすぐ横の壁を叩いた。驚いて顔を上げると、そこには見覚えのある、見事な羽を束ねた黒い扇が突き出されていたのだ。 「なっ......!?」 驚愕に見開かれた私の瞳に映ったのは、黒衣を纏った死神の如き威圧感を放ちながら、音もなく路地裏に降臨した司馬懿様ご本人の姿であった。彼は私の退路を断つようにして立ち塞がり、腕を組んでフンと鼻で笑いながら私を見下ろしている。長身から放たれる圧倒的な気迫に、私は言葉を失い、石像のように固まってしまった。見つかっていたどころか、完全に補足されていたのだ。だが、次に彼から発せられた言葉は、私の恐怖を打ち砕き、遙か斜め上へと飛翔するものだった。 「貴様、いつも遠くから私を見ているな。......そんなに私の知略を学びたいというのか。庶民の凡愚にしては、実に良い好奇心よ」 「............はい?」 私は一瞬、自分の耳を疑った。自信に満ち溢れた、その的外れな言葉。彼は、私がその類稀なる『知略』に惚れ込み、教えを乞うために毎日熱視線を送っていたのだと、本気で勘違いしているらしい。端正な顔には、隠しきれない優越感と自負が堂々と貼り付いており、黒い羽扇を揺らす所作には一切の迷いがない。私は呆気に取られてポカンと口を開けていたが、元来の負けん気がむくむくと頭を擡げてくるのを感じた。相手がどれほどの権力者であろうと、私の純粋な愛好精神を曲解されるのだけは我慢ならない。私は恐れを忘れ、フッと軽く鼻で笑うと、間髪入れずに彼へと言葉の刃を投げ返した。 「え、知略ですか?いいえ、違います。私、あなたの美しいお顔を心の滋養にしていただけですが」 真顔で真っ直ぐに見据えて告げた私の言葉が、薄暗い路地裏に落ちた瞬間。周囲の時の流れが、完全に静止した。 「......なんだと......?」 司馬懿様は、見開かれた瞳のまま完全に凍り付いた。手にしていた黒い羽扇が、手から滑り落ちそうになるのを必死に堪えているのが分かる。その彫刻のように美しい顔は、耳の先から首筋に至るまで、見る間に林檎のような朱色に染まり上がっていった。私のあまりにも堂々とした態度と、予想外すぎる『容姿の愛好家』宣言。彼の誇り高き脳内は、その一言によって完全に大爆発を起こしたに違いない。自らの頭脳ではなく、ただの顔目当てであったという事実は、大軍師の自尊心を根底から揺さぶる劇薬であった。 「こ、この私が、凡愚の補給役だと......!?」 彼は震える声でそう絞り出すと激しく咳払いをして、必死に大人の、そして大軍師としての矜持をかき集めようと身を捩らせた。しかし、その耳朶は依然として真っ赤に燃え盛っており、威厳を取り繕うとすればするほど、不器用な狼狽えが露わになっていく。 「......ふ、ふん。しかし、私を目の保養にするとは、貴様、少しは見る目があるようだな」 どうにか紡ぎ出されたのは、あまりにも苦し紛れな反撃の言葉だった。顔を真っ赤にしながら、なおも上から目線を保とうとするその必死な姿に、私は思わず吹き出しそうになる。 「......褒美に、兵法の何たるかを教えてやっても良い。......明日までに、準備をしておけ!」 「え、ですから、兵法は求めてないですってば!」 「黙れ凡愚!私の知略は、容姿よりも美しいのだ!」 私の真っ当な抗議を、彼は黒い羽扇をバサッと振って強引に遮った。その眼差しは、どこか逃げ場を失った小動物のように泳いでおり、先程の冷徹な死神の面影は微塵も残っていない。 「明日、同じ時間にここへ来い。戦術の基本すら答えられぬようなら、二度と私の顔を見ることは許さぬ!」 自分の顔を人質にするという、前代未聞の強引な約束。彼はそれだけを一方的に言い渡すと、「良いな?」と鋭く睨み付け、衣装の黒い裾を乱暴に翻した。そのまま、逃げるように足早で路地を去っていく後ろ姿。結い上げられた黒髪の向こう側で、彼の首から上、特に耳のあたりが茹で蛸のように赤く染まっているのを、私は決して見逃さなかった。 「顔を見たければ兵法を学べってこと!?どんだけ自分の知略に自信あんのよ......めんどくさ可愛いな、もう」 一人残された薄暗い路地裏で、私は堪えきれずに笑い声を上げてしまった。洛陽の街を震え上がらせる冷徹無比な天才軍師が、たかが町娘の素直な一言に動揺し、真っ赤になって逃げ帰っていく。そのあまりにも不器用で外れた振る舞いと、強引に作り出された接点。その予想外の可愛らしさに、私の心はこれまでにないほど弾んでいた。ただ遠くから眺めるだけの美術品は、存外、人間味に溢れた愛らしい御方だったらしい。 「戦術の基本、ね。仕方ない、少しは勉強しておかないと」 彼が課した途方もない宿題に溜息を吐きつつも、明日がちょっと楽しみになってしまっている自分に呆れてしまう。私は彼の残り香が微かに漂う路地を後にし、いつもの喧騒の中へと戻っていった。明日はどんな不機嫌な顔をして現れるのだろうか。天才軍師との不器用な逢瀬の始まりを予感しながら、私の足取りは羽が生えたように軽かった。
ハナさんより。 リクエストありがとうございました!