うららかな春の陽光が、執務室の格子窓を抜けて板張りの床に四角い光の模様を落としている。曹魏の最前線を支える軍議の場でありながら、今この部屋を満たしているのは、血生臭い戦の気配ではない。真新しい木材が削られる清々しい香りと、微かに漂う墨の匂い。そして、小刀が木肌を滑る小気味良い音だけが、さながら子守唄のように静謐な空間に響いていた。
部屋の主である満寵は、今日も床に胡座で座り込み、自らの周囲に散乱した木片の海に沈んでいる。足元を掃く長い羽織の裾が床の塵を拾おうとも、髪に鉋屑が降り積もろうとも、本人は一向に意に介する様子はない。ただ一つ、手元にある精巧なからくりの部品にのみ、その鋭い知座を注ぎ込んでいた。
「......ふむ。ここの噛み合わせは、もう少し遊びを持たせた方が良さそうだね」
独り言ちて、満寵は手にした親指ほどの小さな歯車に小刀を当てる。シュリ、と薄い木屑が花びらのように舞い落ちた。
部屋の隅、己の文机で記録の整理をしていた#name#は、筆を止めてその横顔を静かに見つめていた。剣を握り、幾多の敵を屠ってきたはずの武官の手。無骨で節くれだったその指先は、驚くほど繊細な動きで微小な部品を操っている。軍略を巡らせ、冷徹な法をもって人を裁く時の『捕食者』のような威圧感。それらは鳴りを潜め、今の彼はまるで、日溜まりの中で玩具に熱中する幼子のような、どこか抜けた愛嬌を漂わせていた。だが、その手元から生み出されるのは、敵を絡め捕り、あるいは命を刈り取るための冷酷な罠の雛形だ。その凄惨な目的と、昼下がりの長閑な空気との落差が、彼という人間の底知れなさを物語っている。
「#name#殿」
不意に、木片を見つめたままの満寵が声を上げた。刃を動かす手は止めぬまま、整った口許だけにへらりとした笑みを浮かべている。
「そんなに熱心に見つめられると、手元が狂ってしまいそうだよ。......いや、君に見惚れて刃を滑らせるなら、それも悪くない手傷かもしれないけどね」
「......また、そのような冗談を。記録の整理が一段落したので、少し休憩をとっていただけです」
見透かされていたことに微かに頬を熱くしながら、#name#は誤魔化すように言い返した。満寵は小刀を手の中から床に放り出すと、長い息を吐いて伸びをする。
「ちょうど良かった。私も今の工程を終えたところだ。#name#殿、これを見てくれ」
手招きされ、#name#は机から離れて彼の傍らへと歩み寄った。木片と設計図に埋もれた床を慎重に避けながら、彼のすぐ隣に腰を下ろす。近付けば、彼から立ち上る檜の香りと、微かな墨の匂いがより濃く感じられた。満寵は#name#が隣に座るのを待って、手のひらに乗せた小さな木組の箱を差し出した。
「新しい絡繰りの試作だよ。これ、一見ただの木箱に見えるだろう?ところが、側面の小さな窪みを特定の順序で押していくとね......」
満寵の大きな指が、箱の表面を滑るように叩く。カチリ、カチリと軽快な音が連続して響いたかと思うと、箱の上部が唐突に弾け開き、中から鋭い針の仕掛けが飛び出した。もしこれが本物の罠であり、毒が塗られていたならば、不用意に触れた者は一瞬にして命を落とすだろう。
「......これは、見事な仕掛けですね。あんなに小さな部品を組み合わせて、これほど複雑な動きを作れるなんて」
「ああ。この針の飛び出す速度と角度の計算には、少しばかり骨が折れたよ。でも、おかげで良い暇潰しにはなったかな」
楽しげに笑う満寵の手元を、#name#は感嘆の溜息とともに見つめた。無骨な指先が、再び複雑な木組みを元の箱の形へと戻していく。その淀みない滑らかな動きは、まるで魔法でも見ているかのようだった。
「手先が器用なんですね」
素直な称賛の言葉が、自然と#name#の唇からこぼれ落ちた。すると、満寵は箱を弄っていた手を止め、少しだけ不思議そうな顔をして#name#を見返した。そして、ふっと自嘲するような、けれどどこか甘さを帯びた笑みを浮かべる。
「いやあ、そうでもないさ。この手のことは得意だけど、それ以外はからっきし駄目だからね。特に、自分のこととなると余計に」
その言葉の意味を理解するのに、時間はかからなかった。
#name#は彼の顔から視線を下げ、その胸元へと目を向ける。そこには、いつものように無頓着に掛け違えた襟元があった。複雑な罠を寸分の狂いもなく組み上げる男が、己の衣の釦一つまともに整えられないのだ。藤色の生地の隙間からは、幾多の戦場を潜り抜けてきた厚みのある胸板と、古い傷跡が微かに覗いている。さらに、視線を上げた先。雑に括られた彼の髪は、先程まで彼自身が削っていた鉋屑が幾つも絡まっており、まるで雪でも被ったかのような状態になっていた。
「......確かに、そのようですね。ご自分の姿を鏡で見たことがありますか?」
呆れ混じりの溜息をつきながら、#name#はそっと手を伸ばした。満寵の髪に触れ、そこに絡みついた薄い木屑を指先で優しく払い落としていく。彼が嫌がる素振りを見せなかったため、#name#はそのまま少し距離を詰め、本格的に彼の身なりを整え始めた。
「これでは、外を歩けば皆に笑われますよ。罠の計算の前に、まずは御身の身だしなみを計算に入れてください」
「痛いところを突くね。だが、私にとっては外聞よりも、手元の絡繰りを完成させることの方が遥かに優先度が高いからね。それに......」
満寵は言いかけて、ふっと口を閉じた。そして、#name#が髪の木屑を払い終え、今度は隙間だらけの胸元を正そうと彼の衣の釦に手を伸ばしたそのとき。唐突に、満寵が己の身体の重心を傾けた。
「......満寵殿?」
彼は#name#の華奢な肩に、こつり、と自らの頭を預けた。驚いて声を上げた#name#に対し、彼はそのまま肩に深く顔を埋め、全身の力を抜くように深く息を吐く。大柄な武官の体重が、微かな重みと確かな熱を持って彼女の半身に伸し掛かった。それは決して、#name#を押し倒そうとするような乱暴なものではない。陽だまりの中で微睡む獣が、唯一気を許した主の温もりに擦り寄るような、ひどく無防備で甘やかな仕草だった。
「......それに、私がどれほどだらしない姿を晒していても、こうして君が世話を焼いてくれる。ならば、私が自分のことを気にかける必要はないってことじゃないかな」
肩口に押し当てられた彼の口から、くぐもった声が漏れる。すぐ耳元で聞こえるその落ち着いた声色は、#name#の心臓の鼓動を密やかに跳ね上げさせた。彼の顔がすぐ近くにある。肩越しに伝わる体温は、春の陽光よりも熱く、そして心地よかった。
「......呆れました。私を専属の侍女か何かと勘違いしていませんか?私はあなたの記録官ですよ」
口では苦言を呈しながらも、#name#は彼を突き飛ばすことはしなかった。それどころか、肩に凭れる彼の邪魔にならないよう、そっと動かした指先で彼の胸元を丁寧に合わせ、乱れた衣装を整えてやる。すると、満寵が目を閉じたまま、喉の奥で小さく笑った。
「ああ、分かっているよ。君は私の、たった一人の優秀な記録官だ。私が法を踏み外さぬよう見張る監視者であり......そして、私がこの城で唯一、己の無様を計算外のまま晒せる場所でもある」
その言葉は、どんなに精巧な罠よりも深く、#name#の胸の奥底へと絡みついてきた。
天下の情勢を読み、敵を欺く冷徹な将。その彼が、手先の器用さなどすべて放り投げ、己の身の回りのことすら放棄して、ただ一人の女の温もりに身を委ねている。それは彼なりの、最大の信頼の証だった。
「......仕方ありませんね。次から新しい絡繰りを作るときは、衣服の汚れを防ぐ套衣を着用することも、計算に組み込んでください」
「善処するよ。でも、今はもう少しだけ......こうして君の体温の計算式を解かせてほしいんだ」
満寵はさらに深く#name#の肩に顔を擦り寄せ、長い睫毛を伏せた。
静かな執務室に、木屑の香りと墨の匂いが混じり合う。格子窓から差し込む光の束は少しずつその角度を変え、二人の影を床の上で一つに溶け合わせていた。春の柔らかな静寂の中、#name#は彼の手によって仕掛けられた『甘やかな罠』に、自ら喜んで落ちていくのを感じながら一人微笑んだ。