空を喰む心臓

成都の街は、今日も噎せ返るような熱気と土埃に塗れていた。万屋の店先で土間を掃く#name#の視界は、常に足元の鈍い土色と、古びた木材の焦げ茶色に支配されている。箱入り娘として厳格な親の庇護下に置かれている彼女にとって、この薄暗い軒下と、通りを行き交う人々の足元だけが世界の全てであった。 しゃり、しゃりと竹箒が乾いた土を掻く単調な音が響く。ふと、その音を遮るように、#name#の足元に柔らかな影が落ちた。彼女が顔を上げるよりも先に、視界の端に鮮やかな色が飛び込んでくる。それは、罅割れた土埃の街には不釣り合いなほど瑞々しい、春の息吹を思わせる若草色の裾であった。 「やあ、#name#。今日も精が出るね」 穏やかで、春の微風のように心地よい男声。弾かれたように顔を上げると、目深に被った頭巾の奥から、目尻を優しく下げた徐庶が微笑みかけていた。彼が訪れると、途端に無彩色だった#name#の視界に『色』が流れ込んでくる。彼の纏う若草色の衣は、#name#がまだ見ぬ広大な草原を連想させた。 「まあ!徐庶様。いらっしゃいませ!本日も、いつもの墨と紙でしょうか?」 「ああ、お願いできるかな。......君の顔を見ると、なんだか街の喧騒を忘れてほっとするよ」 少し困ったように笑いながら、徐庶は店の上がり框に腰を下ろした。 彼はここ最近、頻繁にこの万屋に足を運んでいる。軍師としての激務の合間を縫うように訪れる彼の存在は、薄暗い籠の中に等しい#name#の日常において、唯一の鮮烈な色彩であった。品物を包む短い時間、徐庶は決まって外の世界の話を彼女に聞かせる。彼が語る言葉には、目に見えるような色と温度が宿っていた。 『今日の太陽は、目眩がするほど鮮やかな黄色だったよ。容赦なく肌を照り付けてくるけど、あの強烈な光があるからこそ、草木は命を燃やして咲き誇るんだろうね』 『城の向こうに見える山々は、日に日に深い緑に染まっている。いつか、あの稜線を越えて吹き降ろす風を、君にも感じてほしいくらいだ』 彼が紡ぐ言葉を聞くたび、#name#の胸の奥で何かが静かに脈打つ。それは、見知らぬ世界への渇望であった。薄暗い店の中から見上げる空は、軒先に切り取られた小さな四角形に過ぎない。しかし、徐庶が『色』を運んでくるようになってから、その小さな青色が、ひどく美しく、そして残酷なものに見えるようになっていた。 もっと広い空を見たい。もっと眩しい黄色の光を浴びたい。 籠の鳥が空を恋うように、#name#の心は静かに、けれど確実に外の世界へと傾き始めていた。 ある日の午後。客足の途絶えた店先で、#name#はぼんやりと空を見上げていた。雲一つない、突き抜けるような青。その青色をじっと見つめていると、胸の奥がきりきりと痛む。それは己の不自由さを嘆く痛みであると同時に、徐庶が語る色彩豊かな世界へと手を伸ばしたいという、熱を帯びた焦燥でもあった。 「......また、空を見ているね」 不意に背後から声が落ちて、#name#は驚いたように振り返った。いつの間にか、若草色の彼がすぐ後ろに立っている。音もなく忍び寄るその足運びは、彼がただの心優しい客ではなく、戦場を生き抜く武の者であることを密かに物語っていた。 「徐庶様......。申し訳ありません、ぼんやりとしてしまって」 「いや、謝ることはないよ。ただ......」 徐庶は言葉を切ると、#name#の傍まで歩み寄り、彼女と同じように四角く切り取られた空を見上げた。深く被った頭巾の奥で、彼の瞳がどんな感情を堪えているのか、#name#には読み取れない。ただ、彼の横顔からは、いつもの穏やかさとは違う、湿っぽさを孕んだ重たい気配が立ち昇っていた。 「君はいつも、何かを渇望するような目で空を見上げている。その瞳を見るたびに、俺は......どうしようもなく、焦りを感じるんだ」 呟くような声には、微かな苦悩と、吐き出せない嫉妬が滲んでいる。徐庶にとって、#name#という存在は、血生臭い戦乱の世における一輪の清廉な花であった。泥に塗れた己の生き方とは無縁の、薄暗い万屋という安全な籠の中で守られている女人。しかし同時に、彼女が空を見上げるたびに浮かべる、あの切実な光を帯びた瞳を見るたび、これ以上彼女を籠の中に閉じ込めておくのは罪であるとも感じていた。彼女の心は、既にこの場所には無いのだ。 「私が空を見上げるのは、徐庶様が色をくださるからです」 「俺が......?」 「ええ。私は、ここから見える景色しか知りませんでした。でも、徐庶様が若草色の風を運んできてくれて、太陽の黄色や、山の緑を教えてくださった。......だから、知ってしまったんです。外の世界が、どれほど色鮮やかなのかを」 #name#は徐庶の顔を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には、もはや籠の鳥の諦念はない。ただ純粋に、空を恋う強い意志が宿っていた。その真っ直ぐな視線に射抜かれ、徐庶は小さく息を呑む。愛おしい。今すぐにこの腕に閉じ込めてしまいたい。己の汚れた手で、彼女のその無垢な色を独占してしまいたい。狂おしいほどの感情が、彼の理性を焼き尽くそうとする。彼女の心臓が空を求めて拍動するように、徐庶の心臓もまた、彼女という存在を喰らいたいと渇望して高鳴っていた。 「......#name#」 徐庶は静かに名を呼ぶと、ゆっくりと手を伸ばした。彼の大きな手が、#name#の華奢な手首を包み込む。戦で培われた分厚い掌の熱が、彼女の肌を通して脈打つように伝わってきた。 「もっと近くで、青い空が見たいです」 その言葉は、#name#の心の底から溢れ出た、偽りなき願いであった。この狭い四角形の青ではなく、どこまでも続く果てしない青を。そして、その青空の下を、色を教えてくれたこの人と共に歩いてみたい。 二人の間に、長い沈黙が落ちた。徐庶は#name#の手を握ったまま、じっと彼女の瞳の奥を見つめ返している。やがて彼の口元に、いつもの穏やかな、しかしどこか凄絶な覚悟を秘めた微笑みが浮かんだ。もう、後戻りはできない。彼女をこの籠から連れ出せば、己の生きる修羅の道へと巻き込むことになる。だが、彼女のその美しい青空への渇望を、他の誰にも叶えさせたくはなかった。 「......君のその願い、俺が叶えてあげるよ」 低く、甘く、そして退路を塞ぐような声色で、徐庶は静かに囁いた。彼の手が、手首から滑り降りて#name#の指先を強く絡め取る。それは、彼女の願いを叶えるための導きの手でありながら、同時に、彼女を己という新たな籠へと閉じ込めるための、決して解けない鎖のようでもあった。 万屋の軒先を、初夏の熱を乗せた風が吹き抜ける。切り取られた青空の下、重なり合った二人の影は、もう二度と離れることはなかった。