静寂が支配する執務室には、ただ微かな衣擦れの音と、時折紙を捲る乾いた音だけが響いていた。薄暗い室内を照らすのは、卓上に置かれた燭台の揺らめく灯りばかりである。魏の重臣たる満寵は、広げられた古地図へ鋭い視線を落としながら、珍しく静かに筆を走らせていた。その横顔は隙ひとつなく、冷徹な法を司る男としての威厳に満ちている。
今日もまた、彼にとって平穏で、そして退屈なほどに規則正しい夜が更けていくはずだった。しかし。
――バンッ!!
突如として、堅牢なはずの執務室の扉が勢い良く開け放たれた。木枠が軋むほどの乱暴な開扉音に、満寵はわずかに眉を顰める。視線を上げれば、そこには息を荒らげ、目を爛々と輝かせた#name#の姿があった。
彼女は華陀が調合したという謎の薬――『心の奥底の欲望を隠さず露わにする』という効能を持つ危険な代物を、誤って飲み込んでしまった被害者である。しかし、今の彼女からは被害者らしき悲壮感は微塵も感じられない。
「失礼っ!」
叫ぶが早いか、#name#は疾風の如き速度で満寵の卓へと躙り寄った。そして、有無を言わさぬ勢いで、彼が握っていた筆を強引に奪い取る。手の中にあったはずの感触が唐突に消え去り、満寵は目をすがめた。
「おや、#name#殿。こんな時間に何を騒いで......」
呆れたように少しだけ声を落とし、彼が椅子から立ち上がる。だが、それこそが彼女の狙いだった。
立ち上がった満寵の背後へ、#name#は獣のような素早さで回り込んだ。そして、彼の長身を包み込んでいる、あの長く重たい羽織の裾を両手で掴むや否や、思い切り頭上へと捲り上げたのである。
バサリ、と重たい布が翻る音が響いた。
「わっ......!?」
完全に不意を突かれた満寵の口から、およそ彼らしからぬ間の抜けた声が漏れる。彼が己の背面に張り付いた異様な温もりに気付いたときには、もう手遅れだった。羽織という名の密室に潜り込んだ#name#は、彼特有の、冷たい墨と仄かな香が混じった匂いを思い切り肺裏へと吸い込んだ。
「はあ......いい匂い......!満寵殿、すごくいい匂いがする!」
「に、匂い?よく分からないが、#name#殿!戯れるならまた後で......!」
背中から聞こえる歓喜の声に、満寵の顔から急速に血の気が引き、そして直後にカアッと朱が上る。彼が羽織の上から#name#を引き剥がそうと手を伸ばした瞬間、さらなる凶行が彼を襲った。なんと、#name#の両手が、満寵の腰回りに遠慮なく這わされたのだ。程良く鍛え上げられた背の筋肉から、引き締まった腰、そして力強い太腿の曲線美へと、熱を持った手が撫で回すように滑っていく。
「ああっ、この腰から太腿の曲線!最高!ずっと触ってみたかったんだよね......これ、誘ってるんでしょ!?」
「っ、こらこら!誘ってるなんて、そんなつもりは無いけどね。......それより、擽ったいからそろそろ勘弁してくれないかな」
普段の穏やかな姿からは想像もつかないほど焦燥した声が、夜の執務室に響き渡る。法の前で鉄壁の理性を誇る満寵が、まさか己の羽織の中で暴れ回る女一人にここまで翻弄されるとは誰が想像しただろうか。身を捩り、どうにかして彼女の腕から逃れようとするが、理性を投げ捨て欲望のままに動く人間の力は侮れない。
満寵が体勢を崩し、羽織が前方に大きくはだけた、その一瞬の隙。#name#の手が腰から一気に上半身へと移動し、彼の胸元をちぐはぐに塞いでいた釦へと掛けられた。
「もう!釦を掛け違えるくらいなら全部外せばいいのに!!」
「......#name#殿。いい加減、言動を弁えたらどうだい?君はもう少し、軍に参じる一人の将としての自覚を持つべきだ」
千切らんばかりの勢いで釦が外され、羽織が肩から後方へ中途半端に脱がされる。首筋から胸元にかけての肌が外気に晒された瞬間、ついに満寵の堪忍袋の緒が切れた。彼は強引に羽織ごと#name#の腕を掴み、その華奢な身体を背中から乱雑に剥ぐ。そして、そのままの勢いで彼女の身体を反転させると、背後にあった長椅子へと力任せに押し倒した。
ドサリ、と鈍い音が周囲に沈む。視界が切り替わり、長椅子の背凭れに仰向けになった#name#の上から、大きな影が覆い被さった。
「.........」
静寂が戻った室内には、二人の荒い息遣いだけが交差している。退路を断つように両腕を付きながら#name#を見下ろす満寵の双眸には、先程までの狼狽えは微塵も残っていない。乱れた胸元から覗く肌の熱とは裏腹に、その瞳はひどく昏く、そして底知れない雄の色を孕んでいた。
彼は息を整えながら、ゆっくりと、低い声で告げる。
「......全く、君という人は。言いたい放題、やりたい放題だね」
「.........」
「そんなに私を裸にしたいって言うなら......君の欲望に付き合ってあげてもいい。ただし、相応の対価は払ってもらうよ」
それは、法と規則を司る男が、自らその箍を外した瞬間の宣告だった。獲物を追い詰めるような冷酷さと、逃げ場を奪うような甘さが混在した声音。本来であれば、その圧倒的な気迫の前に震え上がるか、顔を赤くして後退るかの二択しかないはずである。しかし、今の#name#の脳内は、常人の理性をとうの昔に放棄していた。
「......いいよ、払ってあげる」
#name#は怯むどころか、押し倒された体勢のまま両手を伸ばし、満寵のはだけた胸ぐらをぐっと掴んだ。刹那、満寵の瞳がわずかに見開かれる。そして、その驚きの隙きを突くように、#name#は力一杯彼を自分の方へと引き寄せた。
「なっ......、ん......!」
満寵の制止の言葉は、重なり合った唇によって完全に打ち消された。強引で、不器用で、欲望だけが先走った一方的な口付け。それは触れると言うより、喰らいつくという表現が正しいほどの熱を帯びていた。理性を失った熱の塊が、己の唇を貪るように押し当てられている。その事実に、満寵は一瞬だけ呆然と固まった。しかし、すぐさまその瞳に別の火が灯る。掴まれた胸ぐらの手をそっと解き、代わりに彼女の細い手首を長椅子に縫い留める。そして、一方的だったはずの口付けは、いつの間にか満寵の巧みな導きによって、より深く、より甘く、濃厚なものへと塗り替えられていった。
息が詰まるほどの深い熱の交換に、ようやく#name#の喉から甘い吐息が漏れる頃、満寵はわずかに唇を離した。銀糸が切れ、艶を帯びた彼女の唇を親指でそっと拭いながら、彼は愉悦を含んだいつもの悪戯な策士の笑みを浮かべる。
「......今日は、酷く酔っているようだね」
耳元に落とされたその声は、とても甘美で、そして絶対的な支配欲を宿していた。
「酔いが醒めたあと、また同じことを要求したら......君は応えてくれるのかな」
完全に包囲されたその問いかけに、もはや抗う術はない。満寵の意地悪な指先が、#name#の頬をゆるゆると優しく撫でる。その計算し尽くされた極上の甘さの中で、理性の飛んだ頭の片隅で、#name#は自分が文字通り『詰み』を迎えたことを悟るのだった。