いろはうた(壱)
曹魏の最前線を守る将、満寵の執務室は、およそ一国の重鎮が住まう場所とは思えない惨状を呈していた。床には墨の滲んだ設計図が幾重にも重なり、その隙間を埋めるように精巧な歯車や、用途不明の木片が散乱している。その混沌の主は、墨と木と古紙が混ざり合う独特な香りの中、膝をついて床に這いつくばり、熱心に何かを指でなぞっていた。白と青を基調とした長い羽織の裾に埃が被っているが、本人は一向に気にする様子もない。
「……満寵殿。また釦、掛け違えていますよ」
部屋の隅、唯一片付けられた机で筆を走らせていた記録官の#name#は、呆れ混じりの溜息とともに指摘した。満寵は彼女の声に顔を上げると、整った顔立ちにへらりと締まりのない笑みを浮かべる。
「おや、本当だ。いけないね、#name#殿に指摘されるまで全く気づかなかったよ」
はだけた胸元から文官らしからぬ厚みのある胸板が覗いていて、戦場に立つ武官としての逞しさが、そのだらしない着こなしから不意にこぼれ落ちる。己の無頓着さなど微塵も気に留めない彼の様子に#name#は毒気を抜かれ、視線を強引に手元の記録帳へと戻した。
「身なりを整える時間があるなら、一つでも多く罠を仕掛けたい。……それが私の本音だけど、君に嫌われるのは困るからね。あとで直しておくよ」
満寵は飄々とした口調で言いながら、手元の木札を弄んだ。
今日の彼は、朝から様子がおかしい。いつもなら、早朝から新兵器の構想に耽っているはずの男が、今はただの「文字」を見つめているのだ。和やかな目元を、聡く細めながら。
「ところで、#name#殿。君は『いろは歌』をどう思う?」
「……唐突ですね。まあ、教養として知ってはいますけど、それが何か?」
「いやあ。何ってことでもないけど、実は今朝、私の机にこんなものが置かれていてね」
満寵が差し出したのは、一枚の古びた木札だった。所々に小さな穴が空いていたり、細かい亀裂が入っていたり。しかし、その木札には力強い墨跡で、ただ一文字――『い』と記されている。木の古さを感じさせない、堂々とした筆跡だ。
「でもこれだけじゃない。昨日から城内のあちこちで、この札が見つかっているんだ。まるで、私を特定の場所へ誘い出そうとする『道標』のようにね」
穏やかだった彼の瞳が、一瞬だけ鋭い「捕食者」のそれに変わった。部屋の外から、廊下を行き交う兵士や部下、仲間の足音が聞こえる。皆が本格的に活動し始める時刻の間際。忙しない雑音に揉まれながら、満寵はただ静かに#name#の瞳を真っ直ぐ見詰めた。
「#name#殿。悪いけど、今日の記録は予定を変更しよう。この札がどこまで続くのか……この『罠』の招待席まで付き合ってくれるかい?」
満寵は立ち上がり、はだけた胸元を直すこともせず、#name#の手首をぎゅっと握りしめた。凪のように落ち着いた声色の奥に、確固たる意志が見える。返事の余地を与える問いをぶつけておきながら、彼の手は拒絶を許さぬ強さで彼女を掴んでいた。
薄い雲が棚引く空の下。二人が向かったのは、城の北西に位置する古い兵糧庫だった。そこは数年前の大火で焼け落ち、今は満寵が「実験場」として管理している場所だ。凡人には到底理解できない罠の試作や、作りかけで投げ出された謎の物体。それらが幾つも転がっている、彼にとっては遊び場のような空間だった。そんな埃っぽい空気の中、案内されるように落ちていた木札は、いつの間にか『ろ』『は』『に』……と、いろは歌の順に並んでいる。
「……十七、十八。ちょうど『ね』まで揃ったね」
満寵は楽しげに鼻歌を交えながら、焼け焦げた柱の陰から新たな札を拾い上げる。しかし、その足が止まったのは、兵糧庫の最奥にある隠し扉の前だった。そこは満寵自身が設計した、外部からは決して見えるはずのない「秘密の通路」だ。そして、扉の取っ手に赤い紐で括り付けられた、十九枚目の札。そこには、『な』の一文字が記されていた。
「……な?」
#name#が横から覗き込んで呟いたその瞬間、満寵の顔から笑みが消失した。彼は無造作にその札を剥ぎ取ると、裏面に書かれた細かな文字を凝視する。――『咎無くて死す』。その文字を見た途端、満寵の喉の奥から、聞いた事もないほど低く、愉悦に満ちた笑いが漏れた。
「#name#殿。これは傑作だ。この文字の運び、そしてこの挑発的な引用……。蜀の軍師殿は、私の好みを実によく理解していらっしゃる」
「蜀の……? 満寵殿、これは敵の仕業なのですか?」
「ああ。おそらくは諸葛亮殿か、あるいはその息がかかった者だろうね。私の過去をほじくり返し、あえてこの城の『欠陥』を突いてきた。……法という名の完璧な罠に、一滴の泥を混ぜるような真似を」
満寵は扉を開き、暗い通路へと#name#を促した。その目は、もはや明るく穏やかな上司のものではない。
「この奥には、二十枚目の札があるはずだ。そしてその先に、私がかつて『法』によって裁いた男の影が待っている。……怖いかい?#name#殿」
通路は狭く、二人の肩が触れ合うほどだった。満寵は#name#の震える指先に気づくと、ふっと表情を和らげ、掛け違えたままの胸元へ彼女の手を導く。
「大丈夫さ。君が隣で記録を続けてくれる限り、私は踏み外さない。……もし私が法を忘れて獣になりそうになったら、その時は君が私を裁いてくれ」
外の光が十分に差し込まない暗闇の中、彼の体温だけが熱を帯びて#name#に伝わる。彼女の手に届く心音は、昂ることもなく冷静に拍動していた。
「さあ、この難題の究明を続けようか。いろは四十七文字がすべて揃った時、誰が『咎無き者』として死ぬことになるのか……。私が設計したこの城で、真実の照合といこう」
満寵は#name#の耳元で密やかに囁くと、一歩、更に光の届かぬ奥底へと踏み出した。