いろはうた(弍)
「……おや」
暗い通路の奥、満寵が短く呟いた直後だった。二人の背後で、石造りの扉が重低音を響かせて閉ざされる。それと同時に、前方の通路からも鉄格子の降りる鋭い音が響いた。
「え……?閉じ込め……られた? 満寵殿、ここもあなたの設計では?」
「私の設計通りなら、この時間は開いているはずなんだけどね。どうやら、蜀の工作員に歯車を一つ、逆回転に付け替えられてしまったようだ。……私の城で、私を陥れるなんて。なかなか生意気なことをしてくれるじゃないか」
眉を八の字に下げながら吐き出す、どこか弾んだ声。満寵は困ったように笑ったが、その声には隠しきれない興奮が混ざっていた。しかし、現実はそう芳しくない。通路は大人二人が並ぶのがやっとの狭さで、天井も低い。石壁からはじわじわと冷気が染み出し、強制的に密室となった空間の温度が、二人の体温でわずかに上がり始める。
「#name#殿、こっちにおいで。そこは、壁から槍が出る仕掛けを組み込んであるんだ。今は止まっているようだけど、念のためね」
満寵は#name#の肩を抱き寄せ、自分の胸元へと引き寄せた。その瞬間に香ってくるのは、墨と竹と埃に陽だまりを混ぜたような不思議な匂い。掛け違えられた釦の隙間から、彼の熱い肌がほんの少しだけ#name#の頬に触れる。彼女の記録官としての理性が「近すぎる」と警鐘を鳴らすが、暗闇と閉塞感への恐怖がその腕から逃れることを拒ませた。
「……満寵殿。さっきの『咎無くて死す』という言葉。あれは、貴方が昔扱った事件のことですか?」
#name#の問いに、満寵の表情がわずかに強張った。片方の目元が小さく跳ね上がるのは、痛い所を突かれた時に出る彼の癖。満寵はそれに気付かないふりをして、何事も無かったかのように#name#の頭上に顎を乗せる姿勢を取ると、暗闇の先を見つめながら静かに口を開いた。
「……鋭いね。君に隠し事はできないか。……数年前、まだ私が今の地位に就く前の話だよ。ある男を、法に基づいて処刑した。証拠は完璧だった。目撃証言もあり、凶器も彼の家から見つかった。私は迷わず、彼に死罪を言い渡したんだ」
満寵の大きな手が、#name#の背中をなぞるようにゆっくりと動く。掌全体で語るように、過去の自分を彼女に刷り込むように、じわりじわりと熱を押し広げる。だが、その手は少しだけ、震えているようにも感じられた。
「けれど、彼は最期まで笑っていたよ。『私は何もしていない。だが、あなたの作った法が私を殺すというのなら、それに従いましょう。それがあなたの正義ならば』とね。……刑が執行された後、真犯人が別の場所で捕まった。私の『完璧な法』は、無実の男を一人、殺したんだよ」
「そんな……」
「法は人を守るためのものだ。けれど、運用する人間が間違えば、それは世界で最も残酷な殺人兵器になる。#name#殿……。私は、あの日からずっと自分を疑っているんだ。私が仕掛けるこの城の罠も、私が守る魏の法も、実は誰かを不当に傷つけているんじゃないかってね」
いつもは明るく朗らかな満寵の声が、今はとても暗く聞こえる。その音色は、泥濘に落ちた細かい砂利が泥を被って埋まるように、湿って重くなった声が、『過去の罪』という深い沼の底に沈んでいくようであった。薄暗闇の中、肌色が覗く胸元から伝わる鼓動は、彼が「法の機械」ではなく、傷つき、悩み、苦しむ一人の人間であることを、痛切に突きつけている。自らの『完璧』が、誰かを傷つけているかもしれない。拭えない疑念に精神を抉られる感覚は、矢の雨を喰らうよりも鋭い威力で彼の心を痛め付けた。
「……だからこそ、蜀の軍師殿はここを突いてきた。私の『罪悪感』という名の隙間を。……さて、どうしたものか」
満寵は独り言のような口調で呟くと、密室の静寂をなぞるように、#name#の耳元へ熱い呼気を寄せた。吐息が耳朶をかすめ、わずかに口角を上げたであろう気配が伝わる。それはいつもの彼らしい不敵な笑みのようでもあり、同時に、崩れそうな均衡を辛うじて保っている危うい笑みにも思えた。
「こんなに狭い場所で、大好きな記録官殿に弱みを握られてしまうとは。これも計算外の罠だ。……#name#殿、君は今の話を聞いて、私を軽蔑したかい?」
逃げ場のない問いが、冷え切った石壁に反響して#name#の胸に刺さる。彼の腕は、拒絶を恐れるように微かに強張っていた。法という完璧な鎧を纏う彼が、その継ぎ目から溢れさせたのは、あまりにも人間らしい後悔の澱。だが、彼女が抱いたのは嫌悪ではなく、彼が背負う孤独なものの重さに対する、静かな覚悟であった。
「……いいえ。あなたが法を疑い続けているからこそ、わたしはあなたの隣で記録を書き続けたいと思ったんです。あなたが間違わないように、わたしが証人になりますから」
澱んだ空気を切り裂くような、迷いのない言葉。それは、主を支える臣下としての誓いであり、一人の男の魂に寄り添う女としての情意でもあった。
#name#の言葉に、満寵は一瞬、息を呑んだ。暗闇に同化していた彼の心拍が、跳ねるように速まるのを密着した肌越しに感じる。刹那、彼女の身体を閉じ込める腕の力がより一層強くなり、骨が軋むほどの熱量で抱きしめられた。
「……参ったな。君という存在は、どんな堅固な城門よりも私の心をこじ開けるのが上手い。……#name#殿、少しだけ、このままでいさせてくれ。君の体温を感じていないと、今にも過去の亡霊に引きずり込まれそうなんだ」
彼の声は、もはや策士のそれではない。湿った石壁から染み出す冷気が二人を包み込む中、重なる吐息だけがこの空間で唯一の生命の灯火であった。満寵の長い指先が、宝物に触れるような手つきで、#name#の髪を愛おしそうに梳いていく。生死の境界を彷徨うようなこの場所に流れる時間は、事件の渦中にあることを忘れさせるほどに甘く、そして泡のように儚く切ないものだった。
「……さて。いつまでもこうしているわけにもいかないね。そろそろ、この『上書きされた罠』を解体して、犯人の顔を見に行こうか。君をこんな埃っぽい場所に閉じ込めておいた罰は、高くつくよ」
名残惜しそうに腕を解いた時、彼の瞳には既に迷いなどなかった。
満寵は#name#の額に、慈しみを込めた柔らかな唇を落とす。それを合図に、彼は再び獲物を追い詰める「天才工作師」の鋭い眼差しを取り戻し、躊躇いのない手つきで壁の隠し機巧へと指を伸ばした。