いろはうた(参)

​「……ようやく、戻って来れたね」 ​間一髪で隠し通路の仕掛けを解き、#name#たちは埃まみれで執務室へと帰還した。部屋を満たしていたのは、主の不在を守り続けた静謐な空気と、使い古された紙と墨の微かな残り香。満寵は相変わらず裾の汚れた羽織を翻しながら、部屋の中央にどさりと座り込む。乱れた衣の隙間から覗く肌には薄く汗が滲んでいたが、その瞳は既に現実の疲労を追い越し、思考の深淵へと潜り始めていた。 彼の目の前には、これまでの道中で回収した、あるいは彼の机に届けられていた『いろは歌』の木札が、まるで不吉な予兆を孕んだ欠片のように並べられていた。 ​「#name#殿。悪いけど、私の『目』になってくれないかな?」 「目、ですか?」 「ああ。私の視界は今、この文字の羅列に支配されかけていてね。……#name#殿、こちらへ」 ​満寵は自分の膝の間にある床の余白を、慈しむような手つきで二度ほど叩いた。#name#が戸惑いながらも一歩、二歩と足を進めると、彼はその華奢な腰を逃さぬように抱き寄せ、そのまま自分の懐へと深く引き入れる。 ​「えっ……満寵殿!?」 「いいから、じっとしていて。君が一番近くにいてくれないと、答えが歪んでしまう」 ​#name#の背中に、彼の確かな胸の厚みが触れる。湿った衣が肌に張り付く不快感など、彼の放つ熱量にかき消されてしまった。掛け違えられた釦の隙間から、先ほどの脱出劇で高揚した満寵の熱い鼓動が、彼女へと直に伝わっていく。一定の律動を刻むその音は、まるで彼の中に潜む巨大な機巧が、音を立てて動き始めたかのようであった。 満寵は#name#の肩越しに長い腕を伸ばし、床に散らばった四十七枚の木札を手際良く動かし始める。 ​「いろは歌は、すべての文字を一度ずつしか使わない、完璧な秩序だ。……けれど、この札の群れには、わずかな『乱れ』がある」 ​満寵の程良く低い声が、彼女の耳のすぐ後ろで、低い振動となって響く。鼻腔をくすぐるのは、墨と木材が混ざり合った、彼という人間を形作る独特な匂い。暖かい吐息が首筋を掠めるたび、背徳的な甘やかさが肌を這い、#name#は思考が白く染まりそうになるのを必死に堪えた。 ​「『い』『ろ』『は』……ふむ、ここまでは順当だね。でも見てごらん、#name#殿。この『な』の札だけ、木の種類が違う」 「本当だわ……。これだけ、少し色が濃い?」 「正解。流石は私の記録官だね。……そして、この『な』の裏に書かれた言葉を思い出してみて」 カタ、カタカタ……と、乾いた音が無機質な部屋に響き、満寵の指が特定の札を弾き出した。彼は#name#の体を囲うように腕を動かし、散り散りだった文字を、新たな秩序に従って組み替えていく。それはまるで、彼が城に罠を仕掛ける時のように、恐ろしいほど冷徹で、どこか背筋の凍るような陶酔に満ちた動きだった。 ​「『と・が・な・く・て・し・す』……。この七文字を抜き出すと、残るのは四十文字。その四十文字を、今度は私の設計図の座標に当てはめると……」 ​満寵の腕の力が、ぐいっと強まった。柔らかな肉を押し潰さんばかりの強引さで#name#の肩に彼の顎が乗り、二人は重なるようにして、床に描かれた異様な文様を見つめる。 ​「……なるほど。敵の狙いは、過去の冤罪を蒸し返すことだけじゃない。この『いろは歌』自体が、一つの『図面』になっているんだよ。……ほら、よく見て。いろは順に並べるのではなく、この木目の繋がりを優先して組んでいくと……私の設計した、この城の『排気口』の構造図になる」 「城の、図面……じゃあ、犯人は城の構造を熟知していると……?」 「おっと。動かないで、#name#殿。……この図面には、私さえ気づかなかった『欠陥』が書き加えられているんだ。……ここだ。北門の地下、水路の合流地点。ここを爆破されれば、城壁は内側から崩れる」 ​満寵の口調は穏やかだが、その瞳には凍てつくような冷徹さが宿っている。遊び心を完全に排したその眼差しは、獲物の急所を正確に見定めた鷹のそれに等しい。その厳しい瞳のまま、彼は『す』の札を図面の中心へと、死の宣告を下すように叩きつけた。 ​「『咎無くて死す』……。犯人の狙いは、私の過去を断罪することではない。私の誇りであるこの城を、私の目の前で、私の設計を汚しながら壊してみせること。そして、その混乱に乗じて蜀の軍勢を招き入れることだ」 ​満寵は#name#の首筋に顔を埋めるようにして、ふぅ、と長く重い息を吐いた。その仕草は、疲れた子供が母性を求めるように甘えるようでいて、同時に、獲物を仕留める直前の獣が吐く、凶器のような静けさを孕んでいる。 ​「犯人は、私の過去を知り、私の城の癖を知っている。……引導を渡すべき標的を、よく理解しているようだ。そして、何より……。私が君を、ただの記録官以上に大切にしていることまで、計算に入れているようだ」 「……え?」 「見て、最後に残ったこの札を」 ​彼が#name#に握らせたのは、文字の書かれていない、真っ白な木札だった。何も記されていない無垢な表面。けれど、指先で微かに触れると、そこには産毛のように細く、毒蛇の牙のように鋭い針が仕込まれていることに気づく。 ​「これは……」 「それ以上、触ってはいけないよ。微量の麻痺薬が塗ってある。……もし、私が君をこの知恵の輪の中に引き入れていなかったら、君が一人でこれを拾っていたかもしれない」 ​満寵の声から、春の陽だまりのような陽気さが完全に消えた。背後から彼が、#name#の手を包み込むようにして強く、白くなるほど握りしめる。その掌の震えは、怒りか、あるいは初めて抱く「恐怖」という名の感情によるものか。 ​「#name#殿。……君を、この事件の『記録者』にしたのは私だ。だから、君に傷を付けることは、法が許しても、この私が許さない」 ​はだけた胸元から漏れ出す、彼の本気の独占欲。飄々とした態度の裏に隠されていた、剃刀のような鋭利な執着が、暗い部屋の中に剥き出しになる。彼はもはや、法を遵守するだけの役人ではない。己の領地と、己の唯一無二を侵そうとする者への、容赦ない報復を誓う男の顔をしていた。 ​「さあ、絵図は完成だ。蜀の軍師殿が用意した舞台を、私たちが上書きしてあげようじゃないか」 ​満寵は#name#の耳たぶを、所有の証を刻むように甘噛みして掠めると、音もなく立ち上がり、今度は逃がさぬよう力強く彼女の手を引いた。その瞳の奥には、敵を「法の檻」へと追い詰め、完膚なきまでに叩き潰すための、完璧で残酷な罠の設計図が浮かび上がっている。