いろはうた(肆)

​決戦の舞台は、天上の月明かりも届かぬ地底の迷宮、冷え切った湿気を孕む地下水路であった。轟々と唸りを上げる濁流の音は、地下に眠る巨大な獣の咆哮のようで、そこへ鼻を刺すような強烈な火薬の臭いが混じり合う。 満寵は#name#の手を引いて、蜘蛛の巣のように入り組んだ通路を迷いなく進んでいく。その足取りは、死地へ向かう者とは思えぬほどに軽く、まるで自らの庭を散歩するかのような優雅ささえ湛えていた。 ​「……来たね」 ​満寵がぴたりと足を止めた先には、一人の若者が松明を手に立っていた。揺らめく炎に照らし出されたのは、かつて満寵が己の過ちで処刑した男の面影を持つ、復讐者。その背後の濃い闇の中には、真っ白な羽扇を揺らしながら冷笑を浮かべる、蜀の工作員の姿があった。 ​「満寵! お前の『法』が、どれほど無力か思い知れ! この火を放てば、お前の誇る城は砂の山のように崩れ去る!」 ​若者が絶叫すると同時に、蜀の工作員が冷酷な合図を送る。すると壁の隙間に潜んでいた伏兵たちが一斉に影から飛び出し、あろうことか、満寵の隣にいた#name#を捕らえた。 ​「#name#殿…!」 「……動くな! この女の命が惜しければ、そこにある『法の書』を捨て、無実の者を殺した罪を認めろ。お前の誇りを、己の手で泥に塗ってみせろ!」 ​剥き出しの刃が、#name#の白い喉元に冷たく押し当てられる。その瞬間、満寵の貌から一切の色彩と感情が消え失せた。氷の彫像のごとき静謐。彼はゆっくりと、乱れた羽織の合わせを整えるように胸元に手をやった。その動作一つ一つが、嵐の前の静けさを匂わせている。 ​「……困ったね。君たちは、一つ大きな勘違いをしている」 「何だと…?」 「私が法を重んじるのは、それが完璧だからじゃない。人が人であるために、それ以外の縋るものがないからだ。……不完全な人間が、それでも正しく在ろうとするための足掻き。それが私の法だよ」 ​満寵は一歩、また一歩と、死の刃を向けられた#name#の方へ歩み寄る。逆光に照らされた彼の瞳は、暗闇の中で獲物を追い詰める獣のように怪しく光り、底知れぬ威圧感を放っていた。 ​「そして、私の設計した城が『欠陥』を放置しているほど甘いと思わせたなら……私の勝ちだ」 ​満寵が指先で壁の一角を、楽器の弦を弾くような軽やかさで叩いた。カチリ、と硬質な機巧の音が空間に響き渡った瞬間、平坦だった水路の床が大きく傾く。轟音と共に石畳が割れ、渦を巻く激流が牙を剥き、伏兵たちを無慈悲に飲み込んでいった。  ​「なっ……がはっ……!?」 「君たちの見ていた図面は、私がわざと流した『偽物』だよ。あの札の木目を繋げれば、この隠し機巧が発動する仕組みになっていた。……気づかなかったかい? 私が最後の札を置いた瞬間、君たちの負けは確定していたんだよ」 ​混乱と濁流が渦巻く中、満寵は驚異的な速さで若者の腕を払い、#name#の腰を引き寄せた。背後に迫る爆発の衝撃と熱風を、彼は愛おしいものを守る盾となるように、自らの体で遮る。 ​「……#name#殿、怪我はないかい? ……すまないね、助けるのが少しだけ遅くなってしまった」 ​彼の逞しい腕の中で、#name#は震えながらも小さく頷いた。目の前では、蜀の工作員たちが満寵の仕掛けた鉄の「檻」の中に囚われ、蜘蛛の巣に掛かった羽虫のように身動きを封じられている。 ​「復讐者殿。君の父親の件は、私の生涯の罰だ。……その痛みは、私が一番理解している。けれど、それとこれとは話が別だよ。君は今、魏の法を侵し、私の大切なものに手をかけた」 ​満寵は#name#の耳を、凄惨な現実から遠ざけるように優しく塞いで抱きしめる。倒れ伏す若者たちを見下ろす彼の瞳は、春の陽だまりのような穏やかさを湛えながらも、その奥底には決して解けることのない永久凍土のような冷徹さが沈んでいた。 ​「さあ、法の番人として、君を正式に『招待』しよう。私の最も得意な、逃げられない地下牢へね」 ​満寵の声は、水路の奥へと静かに溶けていく。その響きは慈悲のようでもあり、同時に、法という名の鎖で未来永劫縛り付ける呪詛のようにも聞こえた。