いろはうた(伍)
嵐のような一夜が明け、許昌の城には、すべてを浄化するような清々しい朝日が差し込んでいた。黎明の光が格子窓を通り抜け、埃の舞う室内を斜めに切り取っている。地下水路での爆破騒ぎは、満寵の事前の「仕込み」によって最小限の被害で食い止められ、蜀の工作員たちは音もなく張り巡らされた法の網に一網打尽にされた。残されたのは、崩れた壁の無機質な破片と、主を失って床に散らばった四十七枚の木札だけ。
満寵の執務室は、昨日にも増してひどい有様だった。事件の証拠品として回収された木札が、まるで役割を終えた亡霊のように床一面に放り出され、その合間を縫うように、彼が急造した「逆転の罠」の設計図が、思考の残滓として幾重にも重なっている。
「……これで、ようやく一段落だね」
部屋の中央、崩れかけた書類の山に埋もれるようにして座り込み、満寵は凝り固まった身体をほぐすように大きく伸びをした。逆光を背負ったその姿は、数多の刺客を冷徹に水底へと沈めた、あの底知れぬ策士には到底見えない。いつものように、どこか掴みどころがなく、穏やかで陽気な上司の顔であった。
「お疲れ様でした、満寵殿。……それで、あの若者はどうなったのですか?」
#name#は昨夜の激動を記した記録を整理しながら、ずっと胸の奥に澱のように支えていた問いを口にした。復讐の炎を瞳に宿し、満寵に刃を向けたあの青年。
「ああ、彼かい? 魏の法に照らせば、城郭損壊未遂と工作員への加担……本来なら、日の目を見ることのない重罪だ。けれどね、#name#殿。彼が持っていた火薬の大半は、実は湿っていて火がつかない代物だったんだよ」
満寵は床に落ちていた『と』の札を、慈しむように指先で軽く弾いた。
「彼自身、引き金を引くその土壇場で、己の良心に迷ったんだろうね。……だから、私は彼を『法』という冷徹な檻ではなく、『温情』という名の逃げられない罠に嵌めることにした。ほとぼりが冷めるまで、私の知り合いの建築家の下で泥にまみれて働いてもらう。罪を贖い、真っ当に生きるための技術を身につける……それが、私が彼に与えた判決だよ」
「……満寵殿らしいですね」
#name#が口元を綻ばせて小さく笑うと、満寵は「おや、そうかな?」と無邪気に首を傾げた。その拍子に、表向きの明るさを否定するかのように、彼の羽織が草臥れながら大きくはだける。
「#name#殿。君は、私の下したこの裁きを……正しかったと思うかい?」
「正しいかどうかは、遠い未来の歴史が証明することです。でも……わたしがつける今日の記録には、『満寵は法を愛し、それ以上に人を信じようとした』と、そう書き残しておきます」
#name#の言葉に、満寵は一瞬だけ、弾かれたように目を見開いた。そして、彼はゆっくりと、魂を揺り動かされた者の重みを持って立ち上がると、書類の山を無造作に踏み越えて#name#の目の前まで歩み寄ってきた。
「参ったな。……本当に、君という人は」
至近距離で見上げる満寵の瞳は、差し込む朝日の光を反射して、透き通るような飴色を湛えていた。その奥底には、法では決して測ることのできない、熱烈な思慕が渦巻いている。彼は#name#の手から筆を優しく取り上げると、抗う隙を与えずそれを机に置いた。
「記録をつけるのは後でもいい。……それより、#name#殿。また、掛け違えてしまったみたいなんだ。直してくれないかな?」
見れば、今日もまた羽織の下に着込んだ着物の釦が、一つ飛ばしで不器用に留められていた。その隙間からは、昨夜の激闘の余熱と共に彼の情熱を閉じ込めた、逞しい胸板が露わになっている。
「……もう。本当に、わたしがいないと駄目なんですから」
#name#は困ったような苦笑を浮かべながら、彼の胸元へと自然に手を伸ばした。指先が薄い衣越しに彼の肌に触れるたび、昨日暗闇の中で感じた、あの力強い鼓動が指を通じて直に伝わってくる。そして、一つ、二つと慎重に釦を外し、正しい位置へと留め直していたその時。#name#の手首が、満寵の大きな手に包み込まれた。
「……#name#殿。君が直してくれるこの釦のように、私の人生の『掛け違い』も、君が隣にいてくれれば正していけるような気がするんだ」
「満寵殿……?」
「法は冷たく、どこまでも完璧だ。けれど、私の心は、残念ながらそうではない。君に触れられると、これほどまでに熱く、歪んでしまう。……これは、どんな精巧な罠を使っても防ぐことのできない、私の幸福な敗北だね」
満寵は抗うことのできない力で#name#の手を引き寄せ、はだけた胸元……ちょうど、彼の剥き出しの鼓動が一番強く、激しく響く場所に、彼女の掌をぴたりと押し当てた。
「#name#殿。これからも、私の隣で記録を続けてくれ。私の犯す罪も、私の築く城も、そして……君への、この抑えようのないほど深い想いも」
「……はい。それがわたしの、生涯を懸けた任務ですから」
#name#が真っ直ぐに答えると、満寵はいたずらっぽく、けれどこの上なく愛おしそうに細めた瞳をさらに和らげた。
「ははっ、それは嬉しい返事だ。……じゃあ、まずはこの散らかった部屋の片付けから手伝ってもらおうかな。それとも、片付けの前に……もう少しだけ、このままでいてもいいかい?」
満寵は#name#の細い腰に腕を回すと、深い安堵の溜息とともに、その肩に額を預けてきた。窓の外では、新しい一日の始まりを告げる人々の喧騒が、遠く響き始めている。
いろは四十七文字の符合は成り、過去を縛っていた亡霊は朝光の中に消えた。残されたのは、未だ白紙のままの未来と、それを共に綴っていく二人の記録。満寵が耳元で囁く「ありがとう」という微かな言葉は、どんな峻厳な法の条文よりも深く、#name#の心に刻み込まれた。
「咎無き未来」を、あなたと共に。魏の涼やかな風に吹かれながら、記録官の筆は、今日もまた新しい頁を力強く捲るのだった。