《第1話》

凍てつくようなアスファルトが街灯の影を刃のように濃く落とし、ひどく淀んだ空気が肺にへばりつく路地裏。大通りの華やかな喧騒から隔絶されたその場所で、帰宅途中の#name#は逃げ場のない袋小路へと追い詰められていた。 立ち塞がるのは、明らかに安っぽい酒の匂いを漂わせた薄汚い複数の男たち。彼らは獲物を値踏みする卑下た薄ら笑いを浮かべ、退路を奪うようにじりじりと粘着質な距離を詰めてくる。 「お姉さん、こんな時間にお一人?ちょっと俺たちに付き合ってよ」 「困ります。通してください」 #name#が恐怖を押し殺し、毅然とした態度でごろつきを撥ね退けようとしたその時。物陰から極限まで状況を観察し続け、最も効果的な一手を計算し尽くしていたかのように――背後の暗がりから、絶妙なタイミングで規則的な軽い足音が響いた。 「そこの君たち。彼女のアサインを邪魔されると、私の今日のタスクに深刻なボトルネックが生じるんだよね。分かるかな?」 どろりとした夜闇を鮮やかに切り裂いて現れたのは、上質なテーラードスーツを僅かに着崩した男――郭嘉であった。彼は手にした紙コップのコーヒーを優雅に揺らしながら、この場に似つかわしくないほど緊張感を欠いた足取りで、飄々と歩み寄ってくる。 「はァ!?何だお前、引っ込んでろ!」 男の一人が顔面を紅潮させ、威嚇するように声を荒らげて凄む。だが、凄絶なまでの敵意を向けられようとも、郭嘉の唇に張り付いた柔和な笑みは微塵も揺らがない。むしろ盤上の愚かな駒が予想通りの動きを見せたことに歓喜するかのように、氷の如く冷徹な瞳を細めた。 「おや、これは参ったね。このまま君たちが彼女にフルコミットし続けるなら、こちらもコンプライアンス的にアウトなエビデンスがフィックスしてしまう前に、リーガル部門とアライアンスを組んで、君たちの人生のスキームを根底からドラスティックに見直すフェーズに入らざるを得ないのだけれど......それでアグリーしてくれるかな?」 怒涛の如く放たれる外資系ビジネス用語の連雨。それは単なる言葉ではなく、相手の思考回路を完膚なきまでに破壊する精巧な刃だった。息を継ぐ間も与えない流麗にして暴力的な早口に、男たちはすっかり毒気を抜かれたように顔を見合わせる。正確な意味こそ理解できずとも、理詰めで外堀を埋められる根源的な恐怖だけは、本能の次元で察知したらしい。 「弁護士か......?やべぇな、行くぞ」 得体の知れない強大な力に怯え、男たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。不気味なほどの静寂が戻った路地裏で、#name#は事態を呑み込めないまま呆然と立ち尽くしていた。 「あの......助けていただき、ありがとうございました。ですが、今なんて言って......?」 「ああ、あれはただのハッタリだよ。彼らには絶対に理解できないだろうと思って、適当にそれっぽい言葉を並べただけ。ひとまず、何事も無くて良かったね」 郭嘉は悪びれる様子もなくフッと色っぽい笑みを浮かべると、ジャケットの内ポケットから取り出した名刺サイズのカードを、流れるような動作で#name#の手に滑り込ませた。 「というわけで、これ、私のコンタクト先。今日はこの後すぐ別件のアポがあって忙しいのだけれど、後日ゆっくりお礼のデートでもどうかな?」 「えっ?デート......?あの、私そんなこと一言も......!」 「それじゃあ、連絡待ってるよ。お店のリスケは効かないから、リプライはなるべく早めによろしくね」 反論する隙など、最初から一秒たりとも与えられていなかった。嵐のように一方的な要求を残し、郭嘉はひらひらと手を振りながら夜の街の喧騒へとあっという間に溶けていく。残された#name#は、手の中に押し付けられた連絡先と無人の路地裏を交互に見比べ、ただ深く重い溜息をつくことしかできなかった。 数日後。#name#は自室のベッドの上で、逃げられない呪縛のように光るスマートフォンの画面を睨み付けていた。あの夜の不気味な出来事は記憶の底に沈めたかったが、社会人としての最低限の義理は果たすべきだ。そう生真面目に判断してしまった彼女は、不本意ながらも極めて事務的で、一切の隙きを与えない文面を打ち込む。 『先日はお力添えいただき、誠にありがとうございました。略儀ながらメッセージにて御礼申し上げます』 デートの誘いについては徹底して黙殺し、これで関係は断たれるはずだった。しかし、送信ボタンを押した数秒後には、そのささやかな抵抗を嘲笑うかのように無慈悲な通知音が鳴り響き、画面が再び明るく光る。 『お疲れ様。迅速なフィードバックをありがとう。君のそういうロジカルなところ、すごくいいね。ところで、私たちのキックオフのアジェンダについてだけれど、イタリアンとフレンチ、どちらがベターかな?』 あまりの図太さと、常軌を逸した日本語の崩壊具合に#name#は頭を抱えた。この男には、婉曲な拒絶や常識的な牽制など一切通用しない。既読をつけてしまった以上、ここで逃げるのはかえって危険だと判断した彼女は、幾度かの不毛な攻防の末、結局彼が指定したレストランでのディナーを承諾する羽目になった。 摩天楼の頂に位置する、選ばれた者しか足を踏み入れられない瀟洒なフレンチレストラン。眼下に広がる都会の光海を見下ろす特等席で、郭嘉はビロードのように滑らかな口調を操り、この空間の支配権をいとも容易く掌握していた。 「今夜のワインとのマリアージュは最高だね。このお店のコンセプトは、伝統と革新の融合らしいよ」 次々と繰り出されるカタカナ用語に半ば呆れつつも、彼の会話運びは絶妙に洗練されており、#name#は不思議と抗いがたい居心地の良さを感じていた。少々強引ではあるが、対人慣れした特有の距離感にいつしか緊張が解け、上質なアルコールが少しずつ、しかし確実に彼女の防衛本能を鈍らせていく。グラスの水滴を指でなぞりながら、ふと、胸の奥底に停滞していた本音が零れ落ちた。 「実は最近、お世話になった恩師と連絡が取れなくて......」 その言葉が発せられた瞬間、郭嘉の纏う空気が微かに変質した。グラスを見つめる瞳の奥から先程までの柔和な光が消え、冷徹な計算を高速で巡らす『軍師』の鋭利な刃が覗く。しかし表面上の態度は一切崩さず、声のトーンだけを一段落とし、鼓膜を甘く撫でるように囁きかけた。 「へぇ......それは心配だね。もし良かったら、私のリソースを活用してみるのはどうだろう?」 「え......?」 「私の会社、そういう情報収集のプロフェッショナルともアライアンスを組んでいるんだ。君の大事な恩師のこと、私に見つける手伝いをさせてくれないかな」 その声には、有無を言わさぬ強烈な引力があった。藁にも縋る思いだった#name#は、迂闊にもすっかり警戒心を解いてしまい、自らの命綱とも言えるスマートフォンをテーブルの上へと取り出してしまう。 「本当ですか......?実は先生が居なくなる直前、妙なファイルが添付されたメッセージが送られてきて......。でも、パスワードが掛かっていて開けないんです」 画面を提示した途端、郭嘉は柔らかい笑みを貼り付けたまま、蛇が獲物を呑み込むような素早さで、その端末をひったくるように奪い取った。 「ああ、これ......。開けなくて大正解だったね。下手にタップすると、君の位置情報が向こうに筒抜けになる、トラッキングが仕掛けられている可能性が高いよ」 「えっ......嘘、どうしよう......」 「大丈夫。私のセキュアな端末に移して解析してみるから、少し借りてもいいかな?......うん、これでよし。当分は、私の側から離れない方が良いかもしれないね」 郭嘉の手指が淀みなく画面を滑る。それは恩師のデータを抜き取ると同時に、彼女の端末へ極めて巧妙な監視アプリケーションを仕込み、外部からの干渉を根絶するための作業でもあった。完璧な論理と庇護者の顔で逃げ道を徹底的に塞ぎ、たった今、自身の手駒としてこの盤面を制圧したのである。 ――しかし。 突如、#name#の手の中でスマートフォンの画面が深い漆黒へと沈み込んだ。操作を一切受け付けないフリーズ状態。郭嘉が訝しげに眉を顰めた次の瞬間、ブラックアウトした画面の中央に、白抜きの文字が残酷なほど鮮明に浮かび上がる。 『掛かったね』 背筋を凍らせるような、無機質で圧倒的な一言。直後、微かな電子音と共にインカメラが強制起動し、驚愕に目を剥く二人の顔が無音で撮影された。 「......!!」 異変はそれだけでは終わらない。優雅なディナーを演出していた店内のクラシック音楽が唐突に途絶え、不気味な静寂が落ちる。さらに壁面に設置されたデジタルサイネージの映像が一斉に乱れ、激しいノイズの後に映し出されたのは、やはり『掛かったね』という嘲笑うかのような文字列だった。 郭嘉の表情から、外資系エリートの余裕の仮面が音を立てて剥げ落ちる。彼は冷たい目でフリーズした画面を睨み据えると、耳障りの良い柔らかさをかなぐり捨て、地を這うような声で低く唸った。 「......困ったね。思ったより厄介なハウンドに目を付けられてしまったみたいだ」 「郭嘉さん、これ......一体何が起きてるんですか!?」 「ここは、もうすぐ『彼』に物理的に封鎖される。急いで出よう」 郭嘉は卓上に数枚の紙幣を叩き付け、「お釣りはいらないよ」と吐き捨てるように告げると、#name#の腕を骨が軋むほど強引に掴んで走り出した。エレベーターという密室を避け、非常階段を駆け降りながら彼が忌々しげに呟く。 「満寵殿か。デジタルの土俵では分が悪い。盤面を物理に戻すよ」 満寵――その名が意味する、盤石な情報支配の脅威。それを誰よりも正確に把握している郭嘉は、店を出るや否や自身の端末の電源を容赦なく落とした。あらゆる電子機器が一切信用できない以上、取るべき手段は一つしか無い。彼は薄暗い路地裏にあった旧式の公衆電話ボックスへと駆け込み、硬貨を連続で投入しては記憶している電話番号を素早く打ち込んだ。 数回の緊迫したコールの後、受話器の向こうから硬質で無駄のない声が耳に届く。 『はい。どちら様でしょうか』 「ああ、良かった。私だよ」 『郭嘉殿。このような手段で接触してくるとは、随分と追い詰められているようですね』 「少々イレギュラーな事態でね。姜維殿、君のアセットを借りたいんだ。すぐに......」 郭嘉が続きの言葉を紡ごうとした、まさにその時。背後の暗がりから、今にも喉笛を掻き切られそうな凄絶な殺気が立ち昇った。 「そこまでだ、郭嘉殿」 地底から響くような、重く低い声。公衆電話の受話器を握り締めたまま、郭嘉はゆっくりと振り返る。街灯の光すら届くことを拒む、仄暗い路地の入り口。そこを塞ぐようにして立っていたのは、仕立ての良いスーツを着殺した、暴力的なまでの威圧感を放つ男――法正である。 「法正殿。......なぜ君がここに?」 「ハッキング野郎から連絡があってな。債権回収の効率的なルート配置を頼まれたんだ。お前が次に切るカードの予測など、あの男にとっては造作もないことだろう」 法正は底冷えのする冷酷な笑みを深め、郭嘉の背に隠れるように立つ#name#の方へと鋭い視線を突き刺す。それは獲物を射抜く、一切の感情を排した捕食者の瞳。踏み込めば一瞬で命を刈り取られるような、極めて危険な眼をしていた。 「その女が、お前の抱え込んだ不良債権か。大人しく俺に引き渡せ。さもなくば、この場で力づくで回収するだけだぞ」 通信網を掌握して獲物を望む方向へと誘導した満寵。そして、誘導された先で物理的な退路を断つ法正。息の合った恐るべき連携による絶望的な包囲網の中で、郭嘉は受話器をゆっくりと置き、乾いた息を吐いた。 「......最悪なシナリオだね。でも、ここからが私の腕の見せ所だよ」 ひりつくような冷たい夜気の中、三者の視線が激しく火花を散らす。もう誰一人として後戻りできない、逃げ場のない騙し合いの幕が、今、静かに切って落とされた。