《第10話》

鉛色の凍てついた銃口が徐庶の眉間を正確に捉え、郭嘉が容赦なく引き金に指を掛けた、まさにその瞬間。極限まで張り詰めていた殺気の糸を、突如として別の強大な異常性が断ち切った。重厚な鉄扉が内側へと吹き飛ぶ。 「――郭嘉殿。個人の独占欲で盤面を荒らすような愚行は、これ以上見過ごせないね」 感情の起伏というものを一切削ぎ落とした、無機質で氷のように冴え返る声。それが、弾け飛んだドアの残骸が散乱する薄暗い廊下に不気味に響き渡った。血の通わぬ機械の駆動音にも似た響きが、周囲の温度を急速に引き下げていく。 振り返った郭嘉の視線の先。完全に開け放たれたドアの枠に静かに寄り掛かるようにして立っていたのは、穏やかそうな顔立ちの奥に、全てを射抜くような厳しい眼光を隠し持った男――満寵だった。冷徹な狩人の如き佇まいは、それだけで見る者の呼吸を奪う。光なき電子の世界から現れた怪物。彼はただ冷厳なる秩序そのものとして、傲岸な道化の夜を終わらせに来た。これまでデジタルの海に潜み、類稀なるハッキング能力で網の目を監視する支配者として君臨していた彼が、ついに自らの手でエラーを排除すべく、物理的な現実の戦場へとその恐るべき姿を現したのだ。 「満寵殿......直々のお出迎えとは、恐れ入るね」 「君の行動は非効率の極みだ。これ以上のノイズは不要だよ」 満寵は郭嘉の手から流れるような動作で銃を奪い取ると、雁字搦めの恐怖に言葉を失っている#name#と、彼女を庇うようにして立つ徐庶へと、ひどく無感動で機械的な視線を向けた。その眼差しには人間らしい揺らぎは何一つ存在しない。 データシートの文字列をただ照合するかのような作業。完璧な情報網という絶対的な盾が、彼の頭脳に僅かな曇りを与えていた。彼にとって徐庶は、事前にあらゆる個人情報を徹底的に洗い出し、『無害な一般人』であると断定した、取るに足らない背景の一部でしかない。自身の完璧な情報網を盲信するが故の、あまりにも重要な盲点であった。 「一般市民のあなたに、多大なる恐怖と迷惑を掛けたことをお詫びしよう。この男は、私が責任を持って『回収』する。......#name#殿、君の処遇は何れ彼らから下されるよ。それまで、その『安全圏』で震えていると良い」 感情の籠もらない慇懃無礼な一礼を残し、満寵は郭嘉を連行して、音もなく夜の闇の中へと消えていった。二人の足音が遠ざかるにつれ、圧倒的な圧迫感が霧散していく。暴力の嵐が過ぎ去った室内。辛うじて静寂を取り戻したのも束の間、徐庶の部屋の古い固定電話が、まるで処刑執行を告げる不吉なサイレンのようにけたたましく鳴り響いた。 「......はい。......ああ、彼女ならここに。代わりましょうか」 徐庶から戸惑うように受話器を受け取った#name#の耳に飛び込んできたのは、職場の同僚からの、あまりにも非情な宣告だった。受話器の向こうから漏れ出る相手の声は、鋭利な破片のように#name#の心を切り裂いていく。 『あなたの不適切な交友関係と金銭トラブルについて、証拠付きの告発メールが届いたの。そのせいで会社はパニックよ。......申し訳ないけれど、もう職場には来ないでちょうだい』 一方的に切られた解雇の通話。それは、荀彧が緻密に計算し、構築した『社会的な殺害』の完璧な実行だった。無慈悲な断絶の音が彼女を世界の果てへと突き落す。精緻な歯車が噛み合うように進められた罠。蜘蛛の巣に捕らえられた蝶の如く、彼女はただ羽をもがれるのを待つしかなかった。#name#のスマートフォンを奪って外界との繋がりを絶ち、最後に残された僅かな社会の手綱さえも根こそぎ焼き払う。彼女の居場所を物理的にも精神的にも完全に消滅させる、容赦のない策である。 「いや......嘘、どうして。私の居場所はもう、どこにも......っ」 あまりの絶望で糸が切れたように泣き崩れる#name#の肩を、徐庶が力強く抱き寄せた。彼の腕は、壊れやすい硝子細工を保護するような優しさと、獲物を逃さない猛禽類の獰猛さを秘めている。 「酷いな......でも大丈夫、俺は絶対に君を捨てたりしないよ。この仕事を片付けたら、二人で遠くへ逃げよう。だから、もう泣かないで」 優しく髪を撫でるその手付きは温かく、#name#は唯一の命綱に縋り付くように彼の胸元に顔を埋める。その胸の鼓動だけが、彼女にとってただ一つの現実であり、世界の全てであった。 蜘蛛が巣の中心で獲物を優しく看取るように、彼の微笑みは闇に溶けていく。彼女はまだ気付いていない。外界から孤立し、全ての逃げ場を失ったことで、この世で最も抜け出すことの困難な『狂信的な執着の檻』に、自らその足を踏み入れてしまったことに。安全圏だと思い込んでいたこの部屋こそが、最も深く、最も暗い深淵だったのだ。 一方、激しい雨が容赦なく打ち付ける臨海地区の巨大な倉庫。曹休の率いる完全武装した部下たちに何重にも包囲され、凍えるコンクリートの床に無様に膝をつかされる劉備と姜維。その絶望的な処刑場のような空間の前に、満寵に連行されてきた郭嘉が引きずり出された。叩き付ける雨は、まるで彼らの破滅を祝福する地獄の叫びのよう。立ち込める殺気が、囚われた二人の自由を余すところなく奪っていった。 「郭嘉殿!無事だったか、共にここを脱出しよう!」 満身創痍の劉備が、未だ正義の炎を絶やさずに叫ぶが、郭嘉はゆっくりと立ち上がり、高級スーツの埃を静かに払いながら、ひどく薄く冷めた笑みを浮かべた。その瞳に宿るのは、情と言った泥臭い感情を一つも残さず取り除いた合理性のみである。 「申し訳ないね、劉備殿。私は『負ける賭け』はしない主義なんだ。それに、君たちのその無価値な正義感に付き合う義理もない」 かつて、人を煙に巻く呪文のように放っていた外資系のカタカナ用語。それらを封印した郭嘉は、剥き出しの峻烈な本性で言い放つ。泥を被ることを極端に嫌う彼が選んだのは、沈み行く泥舟を見捨てて自分一人が這い上がる方法だった。利害の天秤が傾いたことを瞬時に察知した彼の行動は、あまりにも迅速で人の心などありはしないが、ある意味では勝者の道理である。 そして、倉庫の奥。一段高い暗闇の場所から、プレイヤーに大きな権力を振り翳し続ける存在として盤面を見下ろす曹丕へ、その狡猾な視線を向けた。 「曹丕殿。彼らが嗅ぎ回っていた情報と、姜維殿の隠し資産のアクセス権......全てあなたに差し出しましょう。これで、私をもう一度盤面に戻してくれませんか?」 「......卑劣な真似を!そなたには誇りというものはないのか!」 劉備の血を吐くような悲痛な叫びも虚しく、曹丕の氷のような双眸は、ただ残酷なまでの冷徹さで地を這う敗北者たちを見下ろしていた。王座に居座る支配者の視線は、塵芥を見るかのように無関心極まりない。この劇場の幕を下ろす権利を持つのは、彼だけである。ゲームの全てを掌握する黒幕によって、回避不可能な死のジャッジメントが下される瞬間だった。 そして、この狂気に満ちたコンゲームの全容を、遙か離れた場所から神のように冷淡に観測している二つの影があった。紫煙の向こうで光る画面が、世界の縮図を映し出している。全てを掌の上で転がしている気になっている愚者たちを、さらなる高みから嘲笑う影。無数のモニターが並ぶ裏社会の堅牢なハッカールームで、魯粛は最高級の紫煙をゆっくりと燻らせながら、満寵が完璧なシロだと断定して徐庶を見逃した映像を眺め、喉の奥で低く嗤った。 「あのエンジニア、まんまと逃したな。これで、俺たちの『爆弾』の導火線に火が点いたぞ」 「支配者もハッカーも、あの青年の裏の顔には微塵も気付いちゃいないねぇ......さあ、仕上げといこうか」 龐統が手元のコインを高く弾いて、パシッと力強く握り込む。 最強のプレイヤーたちが互いの知略を尽くして出し抜きあう表のゲーム。その裏で、全てを喰らい尽くす第三勢力の不気味な暗躍が、いよいよ最終段階へと移行しようとしている。反転した運命の歯車はもはや止まらない。既存の秩序が砂上の楼閣の如く崩れ去る、破滅の狂詩曲が幕を開けようとしていた。龐統の手の中に落ちた二度目のコインは『裏』。この戦局が根底から覆ることを意味するその暗号を知る者は、龐統と魯粛、この世界でただ二人だけである。