《第11話》
窓のない墓所のように、しんと静まり返った暗室。無数の巨大なモニターが放つ冷たく青白い光だけが、暗闇の中に墓標のように浮かび上がっている。満寵は手元にある無骨な小型端末を、感情の抜け落ちた爬虫類のような瞳で見つめていた。それは先程、郭嘉を物理的に連行して盤面から排除した際、彼の懐から問答無用で没収した戦利品である。
「郭嘉殿も、存外に執念深いね。あれほどの劣勢で、よくこの『鍵』を拾い上げたものだ」
満寵が流麗な指先でエンターキーを軽く叩くと、堅牢にロックされていた端末の深層ディレクトリから、一つの音声データが剥き出しにされる。再生されたのは、#name#が無意識に呟いた『シュガー・スリー・ゼロ』という、恐怖と安堵で微かに震える声だった。あの絶望的な包囲網の中で、郭嘉は密かに録音スイッチを押し、形勢逆転の決定的な『鍵』をもぎ取っていたのだ。
世界中のあらゆるセキュリティを蹂躙してきた満寵のハッキングすら受け付けなかった、恩師が残した謎の暗号化ファイル。そこに、この泥臭くアナログ極まりないパスワードを入力する。すると、ズン、という重厚な電子音が鳴り響き、長らく堅く閉ざされていたパンドラの箱が、ついにその禁断の口を大きく開いた。
モニターの全面に展開されたのは、絶対的支配者である曹丕が影で構築した巨大な資金洗浄のネットワーク図と、天文学的な数字で流れる莫大な違法資金の痕跡。しかし、満寵の氷のように透き通った視線は、その巨悪の全容には向けられなかった。彼の研ぎ澄まされた目は、膨大なデータのさらに奥底、通常の人間であれば存在すら認識できない深層領域にひっそりと仕込まれた、『微細なノイズ』を的確に捉えていたのだ。
「......おや?全資金の終着点が、曹丕殿の口座からさらに『未知の領域』へと流出している。これは一体......」
満寵の青白い指先が、目にも留まらぬ狂気的な速度でキーボードの上を乱舞し始める。緻密に構築された偽装ルートの皮を一枚ずつ剥がしていくと、資金を影から掠め取っていく未知のハッカーの僅かな痕跡が露わになった。その洗練され尽くした、それでいてどこか飄々と相手を嘲笑うかのようなコードの記述を見た瞬間。満寵の精緻な脳裏に、一つの冷酷な仮説が雷鳴のように閃いた。
「......ああ、なるほど。そういうことか」
満寵は再び、徐庶という青年の『平凡極まりない』個人データをメインモニターへと呼び出した。改めて解析の網の目を顕微鏡レベルまで細かくし、細胞を一つ一つ解剖するような容赦のないスキャンをかける。すると、データのタイムスタンプの最奥に、肉眼では判別不可能なレベルの極小の改ざん痕跡が不気味に浮かび上がった。
「あの隣人の『平凡過ぎる』データは、この未知のハッカーによって意図的に造り上げられた精巧なダミーだった、と。......どうやら、私は見えない幽霊の掌で滑稽に踊らされていたようだね」
自らを唯一無二の観測者だと自負し、この世界のあらゆる情報を掌握していると信じて疑わなかった満寵。彼の暗い眼窩の奥で、自身の驕りを呪う絶対零度の怒りが静かに、しかし凄まじい密度で弾けた。自らの神域を土足で踏み荒らしたこの未知の第三勢力を、決して生かしておくわけにはいかない。彼は如何なる勢力にも傍受できない極秘の暗号通信回線を開いた。
「......聞こえているかい?法正殿。あの隣人は、ただの一般人ではない。極めて黒に近いジョーカーだ。今すぐ彼を物理的に『排除』してくれないかな」
鼓膜を打つ激しい雨音が、コンクリートの壁を無慈悲に叩き付ける深夜。外界のノイズが全て雨音に掻き消される中、徐庶の部屋のチャイムが、命の期限を告げる死神のノックのように暴力的なリズムで連続して鳴り響いた。ドアスコープを覗くこともなく、徐庶は強固なチェーンをかけたまま、僅かに、ただ数センチだけ扉を開く。その細い漆黒の隙間から覗き込んできたのは、全身から血生臭く冷たい殺気を立ち昇らせた、法正の狂気的な姿だった。
「さあ、芝居は終わりだ。お前の化けの皮は剥がれたぞ。その女を置いて、大人しく俺と来い」
地の底を這うような、明確な殺意と実力行使を伴った脅迫。しかし、徐庶の表情には微塵も動揺の波紋が広がることはなかった。彼は瞬時に血の気を引かせた青ざめの顔を完璧に作り上げ、背後に#name#を庇うようにして隠すと、怯えながらも毅然とした小市民の声で言い放つ。
「......何の用ですか。先程の騒ぎで、既に警察には通報済みです。それに、このドアには防犯用のクラウド録画カメラも仕掛けてある。これ以上脅迫するなら、今すぐ映像を警察に送信しますよ」
それは寸分の狂いもない完璧な、『暴力に耐えながら正当防衛を主張する善良な隣人』の演技だった。
法正は不快げに、重い舌打ちをした。満寵からの指示は確実な排除だが、警察組織とクラウド録画という『表社会の頑丈なシステム』を盾にされては手が出せない。強行突破をすれば、それこそ自身のライセンス剥奪のみならず、満寵の最も求める『効率』を著しく損なう致命的な結果を招くのだ。
「......ふん、小賢しい真似を」
法正は獲物を目の前にして牙を抜かれた猛獣のような鋭い気迫を残したまま、忌々しげに踵を返し、冷たい雨の吹き込む廊下の奥へと足音荒く消えていった。扉が閉まり、オートロックの重い電子音が室内に響く。
「......もう大丈夫だよ、#name#。怖い思いをさせてしまったね」
徐庶は心底からの安堵の息を長く吐き出すと、恐怖に震えて座り込んでいた#name#の華奢な身体を、あらゆる逃げ道を塞ぐように強く、深く抱き締めた。
「徐庶さん......っ、ごめんなさい、私のせいで、あなたがこんな危険な目に......
」
「そんな、君のせいじゃないよ。俺が君を守るって決めたんだ。だから、俺だけを信じて」
#name#は声を上げて泣きじゃくり、自分に残された唯一の光に縋るように、徐庶の頼もしい背中へと強く腕を回した。彼女の涙に濡れた視界には、身の危険を顧みずに自分を守ってくれる、底抜けに優しい青年の姿しか映っていない。しかし、彼女からは決して見えないその死角で。徐庶は#name#の背中を愛おしげに撫でる手付きとは裏腹に、感情の一切を排した冷酷で底知れない瞳をひっそりと開いていた。彼は背中に縋り付く彼女の体温を冷静に計算式の隅に追いやると、片手で音もなくスマートフォンを操作し、たった一行の暗号化されたメッセージを驚異的なタイピング速度で送信した。
『――猟犬が嗅ぎ回っている。今すぐ潜航しろ』
遠く離れた、紫煙の燻る地下のハッカールーム。暗号メッセージを受け取った龐統は、楽しげに口角を吊り上げると、エンターキーをパチンと強く叩いた。
「天才ハッカーの坊っちゃんが、ようやく気付いたみたいだねぇ。さあ、あっしらは店仕舞いにしようか」
「ああ。徹底的に息を潜めよう。最終幕が上がるその時までな」
龐統の神業により、彼らが構築していた巨大なシステムと偽装された物理的痕跡は、広大なネットの海からほんの一瞬にして消滅した。満寵の執念深い追撃を電子の霞のように鮮やかに躱し、誰の探知も及ばない潜伏状態への完全移行。男たちの異常な独占欲と狂気がドロドロに渦巻く盤面で、徐庶という最も甘く、そして最も恐ろしい『偽りの檻』の扉が、#name#の背後で今、音もなく施錠された。それは、裏返ったコインでは決して開けることの出来ない、生涯を縛り付ける甘美な生き地獄への扉であった。