《第3話》
深夜のオフィス街。喧騒から切り離された古びた雑居ビルの一室は、古い紙が放つ埃っぽい匂いと、淹れたての茶の香りが入り混じり、息が詰まるほどの濃密な空気を形成していた。分厚い防音扉が重々しい音を立てて外界を遮断すると、ほんの数分前まで繰り広げられていた死闘が嘘のように静まり返る。#name#は肺の奥底から荒い息を吐き出しながら、案内されたアンティークの革張りソファに力なく崩れ落ちた。極限まで張り詰めていた緊張の糸がふつりと切れ、自身の膝を抱き抱える指先が小刻みに震え続けている。
「夜分遅くに騒々しいですね、郭嘉殿」
この異質な部屋の主である荀彧は、嵐のような逃亡者たちを前にしても微塵も動じる様子はなく、白磁のティーカップを二つ、優雅な所作でテーブルに置いた。端正で隙のない顔立ちには穏やかな笑みが貼り付いているが、その奥底で冷ややかな光を放つ理知的な双眸は、逃げ込んできた二人の疲労困憊の様子を、まるで実験動物でも観察するかのように冷徹に見下ろしていた。
学習塾の講師という表向きの肩書を持つ彼の私室は、壁一面が難解な専門書や分厚いファイルで埋め尽くされている。それは彼自身の明晰すぎる頭脳の中身をそのまま具現化したかのような、異様な圧迫感を伴う空間だった。
郭嘉は壁際に寄り掛かり、忌々しげに高級スーツのネクタイを乱暴に緩めた。
「急な訪問で申し訳ないね、荀彧殿。少しばかりイレギュラーな事態に巻き込まれてしまって。彼女の恩師が残した厄介なデータのおかげで、満寵殿と法正殿の猟犬コンビに追われているんだ」
郭嘉が事の顛末を簡潔に、かつ自らに有利なように語る間、荀彧はただ静かに茶を啜っていた。#name#のスマートフォンに送られてきた暗号化ファイル。失踪した恩師。血眼になって追ってくる男たち。その全ての情報を脳内で一瞬にして咀嚼し終えた後、荀彧は薄い唇をゆっくりと開いた。
「なるほど。状況は概ね理解しました。ですが、あなた方は前提から間違っているようですね」
静謐な声が、部屋の空気を物理的に一段階、凍てつかせる。
「前提、ですか?」
不安げに縋るような視線を向ける#name#に対し、荀彧はただ淡々と、冷酷な事実を提示し始めた。
「ええ。恩師がなぜ、専門家ではなく一般人の貴女にそのデータを託したのか。満寵殿のハッキングすら受け付けない強固な暗号化が施されているなら、尚更不自然でしょう。しかし答えは極めて単純です。そのパスワードは、高度なアルゴリズムによるものではない。#name#殿、貴女と恩師の間でしか共有されていない『極めて個人的な記憶』に依存する文字列だからです。それ故に、貴女に直接託すのが最も安全だと判断した、そう考えるのが妥当だとは思いませんか」
#name#の肩がビクリと大きく跳ねた。郭嘉もまた、ふっと目を細め、不気味な沈黙へと沈む。これまで誰も気付かなかった、あるいは意図的に触れようとしなかった最大の核心。それを容易く紐解いた荀彧の刃のような矛先は、次いで壁際に立つ郭嘉へと真っ直ぐに向けられた。
「そして郭嘉殿。あなたがその事実に気付いていなかったとは到底思えません。むしろ、気付いていたからこそ、姜維殿と結託して彼女に接触したのでしょう。違いますか?」
「......荀彧殿、一体何の話を?」
郭嘉の声から、先程までの耳障りの良い柔和な響きが掻き消える。しかし、荀彧は追及の手を一切緩めることはなかった。
「白を切るのは無意味です。あなたが先程、公衆電話で姜維殿に連絡を取ったのは『逃亡の支援』を求めたからではない。最初から彼と組んで、#name#殿の身柄とデータを手中に収めるスキームを構築していたからです。金融の専門家である姜維殿に資金洗浄と権利関係の裏付けを任せ、あなたが実働として彼女の懐に入り込む。ならず者に絡まれたというあの出会いすら、決して偶然などではないでしょう」
息を呑む音が、静まり返った室内に痛いほど響き渡る。#name#は信じられないものを見るような怯えた目で郭嘉を振り返った。外資系エリートの余裕の笑みは完全に剥げ落ち、彼はただ鋭く冷たい視線で荀彧を睨み付けている。否定の言葉は、ない。
「あなたの不完全な策のせいで、彼女は満寵殿の標的となり、不必要な危険に晒された。事実、あなたは彼女を守り切れていない。これ以上の介入は、#name#殿に対する明確な加害行為と断定せざるを得ません」
「......痛い所を突いてくるね。けど、私が居なくなれば、彼女はどうなる?満寵殿の包囲網を前に、非力な君一人で彼女を守れるとでも?」
反論を試みる郭嘉に対し、荀彧は氷のように冷たく、圧倒的な優位性を持った視線を射抜いた。感情が削ぎ落とされた彼の言葉には、相手の存在価値そのものに対する絶対的な否定が込められている。
「守れない、ではありません。あなたがここに居座り続けること自体が、最大のセキュリティホールなのです。外資系企業のあなたのデジタル上の足跡、あるいは法正殿の追撃ルート。あなたという存在が発するノイズがある限り、ここは決して安全ではない。彼女の安全を完璧に保証するには、あなたには直ちに退室していただく他ないのです。理解できませんか?」
有無を言わせぬ論理の暴力。ただ淡々と事実と根拠、そして結果を正論でぶつける圧倒的な制圧。容赦なく殴りつけられ、退路を断たれた郭嘉の巧妙な話術は、ここでは全くの無力であった。#name#の瞳には、かつて向けられていた安堵と信頼の代わりに、決定的に裏切られた絶望の色が濃く滲んでいる。自分がただの都合の良い手駒でしかなかったという真実が、郭嘉から最後の反撃の気力を奪い去ったのだ。
「......完全に盤面をひっくり返されてしまったか。君のそういう容赦のないところ、本当に嫌いだよ」
郭嘉は自嘲気味に笑うと、背中を向けて重い扉のノブに手を掛けた。
「#name#殿。私のやり方が強引だったのは認めるよ。でも、外の狩人よりは丁重な扱いをするつもりだったんだ。......せいぜい、その『正しい』男に飼い殺されないよう気を付けることだね」
不穏な警告の捨て台詞と共に扉が重々しく閉じられ、郭嘉の気配が掻き消える。広い室内には、壁掛け時計の秒針が無機質に時を刻む音だけが残された。
膨大な情報の渦と、信じていた男からの裏切りに耐えきれず、#name#は両手で顔を覆う。唯一の味方だと思っていた男は、最初から自分を利用するためだけに甘い言葉を囁いていたのだ。外には自分を捕らえようとする恐ろしい追跡者が徘徊している。縋るべき場所など、とうの昔に失われていたのだと、#name#は今更になって痛感する羽目になった。
「泣いているのですか。愚かですね」
頭上から降ってきたのは、慰めとは程遠い、酷薄なまでの事実だった。荀彧は音を殺した静かな足取りで正面に立つと、怯えて震える彼女の顎に冷え切った指先を添える。そして、逃げ場を失った顔を上向かせ、無理やり自分と視線を合わせさせた。
「外には満寵殿と法正殿、そして郭嘉殿すらも貴女を手駒として利用しようとしていた。貴女にはもう、頼る場所など何処にもありません」
逃げ道という逃げ道を全て潰し、#name#の外堀を緻密な計算の元に埋め尽くして孤立させる。至近距離で覗き込んだ瞳孔の奥には、仄暗い熱がドロドロと揺らめいていた。それは相手の全てを把握し、完全に支配下に置いた上で嬲るように愛でようとする、腹黒き軍師の歪んだ束縛と官能の本性だった。
「ですが、安心してください。私が正しく導いて差し上げましょう。外界の悪意も、不確かな感情も、この部屋には不要です。貴女はただ、私の提示する事実と結果だけを受け入れ、ここで大人しくしていれば良いのですから」
逃げ場など最初から存在しなかったのだ。正論という名の不可視の重い檻が、#name#の周囲を厳重に包囲していく。冷たく、それでいて麻薬のように甘い束縛の言葉に、#name#はただ抗うことすらできず、絶望の淵で身を震わせるしかなかった。