《第4話》

泥のように重く深い微睡みから強引に引きずり出された#name#は、見知らぬ無機質な天井を見つめたまま、数秒間、意識の焦点を結ぶことすらできずにいた。肌に触れるシーツは不気味なほどパリッと糊が効いており、室温は肌寒さを一切感じさせない、生命維持に最適な数値で徹底的に管理されている。しかし、壁の大半を占めるはずの窓には分厚く重い遮光カーテンが引かれ、外界の光も、都市の喧騒も、一切のノイズが暴力的なまでに遮断されていた。自分が今、世界のどこにいるのか。今は朝なのか、それとも深い夜なのか。時間感覚すら奪い去られた、完全なる隔絶空間。 「おはようございます、#name#殿。少しは疲れが取れたようですね」 蝶番の軋む音すら立てず滑らかに扉が開き、荀彧が静かに姿を現した。手には芳醇な香りと共に湯気を立てる紅茶と、彩りよく盛り付けられた朝食のトレイが乗っている。彼の振る舞いは極めて紳士的であり、物理的な暴力の気配など微塵も感じさせない。しかし、その底知れない穏やかさこそが、今の彼女にとっては肺の空気を根こそぎ奪われるような、息の詰まる恐怖そのものだった。 「私の......スマホは、どこですか。職場に、連絡を入れないと」 「貴女を特定するあらゆる通信機器は、すでに私が物理的に破棄しました。満寵殿のハッキングの精度を考えれば、それが最も確実な防衛策ですから。職場への欠勤連絡も、適切な理由を添えて私から処理しておきましたよ」 事も無げに淡々と告げられた冷酷な事実に、#name#の全身から一気に血の気が引いた。それは『保護』という甘い名目を借りた、社会からの隔離――いや、抹殺に等しい。事実と根拠だけをぶつけて周囲を圧倒し、外堀を埋め尽くして対象を孤立させる。それが、この男の歪んだ束縛と官能の形なのだ。正論という名の言葉で容赦なく殴られ、抵抗するための武器も退路も、すべてが絶望的なまでに塞がれていた。 「さあ、食事を。その後で、少し頭を使っていただきます。貴女の恩師が残した、あのパスワードについて」 荀彧はトレイをテーブルに音もなく置くと、#name#の対面に位置するソファに深く腰を下ろした。感情の温度を感じさせない冷徹な双眸が真っ直ぐに向けられる。それは、論理という名のメスで精神を解剖する、逃げ場のない残酷な尋問の始まりを告げる動作であった。 「恩師と最後に会ったのはいつですか。その時、彼は何に言及しましたか。感情や印象は不要です。客観的な事実と、会話の記憶だけを抽出してください」 「......分かりません。ただ、昔の......学生時代の研究の話をしただけで......」 「曖昧な記憶は非効率ですね。もっと深く掘り下げてください。彼が貴女に託したということは、貴女にしか解読できないという確固たる根拠があるはずなのです」 荀彧の追及は、極限まで研ぎ澄まされた氷の刃のように鋭く、そしてどこまでも執拗だった。恐怖で言葉に詰まると、「嘘や隠し事は、盤面における貴女の生存確率を無意味に下げるだけですよ」と、冷酷な正論で彼女の心を容赦なく解体してくる。優しく穏やかな口調のまま精神の逃げ場を的確に奪い去り、最終的に『荀彧』という存在に依存せざるを得ない状況を緻密に構築していく。この防音室は、彼の異常な知性と執着が作り上げた、狂気の檻だった。 一方その頃。#name#が孤立させられている密室から遠く離れた、都心の空を切り裂く高層オフィスビルの一室。フリーの凄腕ファイナンシャルプランナーとして裏社会でも名を馳せる姜維は、数台の大型モニターに映し出される膨大な金融データを、感情の欠落した冷ややかな目で見つめていた。郭嘉の策が昨晩の時点で致命的な破綻を迎えたことは、目まぐるしく変動する資金の不自然な流れからすでに察知している。極端なまでにリスクを嫌う彼のマネジメントの観点から言えば、直ちに郭嘉の口座との紐付けを物理的・電子的に切り離し、自身の痕跡を塵一つ残さず消去するのが唯一の『最適解』だった。 しかし、正確なリズムでキーボードを叩く姜維の指先が、ふと空中で止まる。来客を告げる無機質なインターホンが鳴るよりも僅かに早く、オフィスの分厚いアクリル製の扉が、荒々しい腕力によって乱暴に押し開けられたからだ。 「姜維殿、少し時間を割いてくれぬか。連絡なしの訪問になった非礼は詫びよう」 そこに立っていたのは、くたびれたトレンチコートを羽織り、獲物を狙う鷹のような鋭い眼光を放つ男――決して権力に屈しないジャーナリスト、劉備だった。彼は姜維の射殺さんばかりの冷たい視線を真っ向から受け止めたまま、一切の迷いなく土足で室内へと踏み込んでくる。 「劉備殿。あなたのその身勝手な正義感は、私の業務において極めて費用対効果が悪いノイズでしかありません。セキュリティを呼ぶ前に、お引き取りを」 「そう冷たくあしらわないでくれ。恩師の失踪事件と、#name#殿の行方……そして郭嘉殿の不自然な資金の動きについて、そなたなら何か知っているはずだろう?」 姜維の整った眉が、苛立ちに微かにピクリと動く。劉備の異常なまでの嗅覚は、表舞台で派手に動く郭嘉という本丸ではなく、あえて水面下で資金と情報を緻密に管理する協力者――姜維という影の急所へと真っ直ぐに向けられていたのだ。 「何の話か分かりませんね。私は顧客の資産を管理しているに過ぎない。不確定な憶測に基づく取材に付き合う義理はありませんよ」 「とぼけないでくれ。そなたの言うリスクとやらは、人の命や尊厳より重いのか?彼らが#name#殿をどうするつもりか、裏でどんな思惑が動いているのか……真実を記事にして白日の下に晒す、それが私の仕事だ」 劉備の言葉には、社会的良識と弱者を救済しようとする、揺るぎない正義への渇望が宿っていた。しかし、姜維はそんな熱を帯びた言葉を前にしても、一切の感情を交えることなく氷点下の声で冷たく言い放つ。 「私情や安っぽい正義感で動くのは、投資において最も愚かな行為です。彼女が誰の手に落ちようと、それは盤面の駒が動いただけのこと。……忠告しておきましょう、劉備殿。これ以上この件を嗅ぎ回れば、あなたのその正義ごと、致命的な負債を抱えることになりますよ」 決して相容れない二人の男の視線が、虚空で激しく火花を散らして交錯する。真実を暴き出そうとする泥臭くも強烈な執念と、人間の命すらもすべて損得とリスクで計算する冷徹な論理。逃げ場のない椅子取りゲームの黒い波紋は、確実に外の世界をも侵食し始めていた。 外界で繰り広げられるひりつくような対立など知る由もなく、遮断された荀彧の私室では、なおも精神を削り取るような息詰まる尋問が続いていた。 「思い出しましたか。彼が最後に貴女に手渡したもの、あるいは示した数字を」 「......だから、本当に......何も......っ」 恐怖と極限の疲労で、ついに#name#の目からポロポロと大粒の涙が溢れ落ちる。理詰めで限界のその先まで追い詰められ、完全に心が折れたその姿を見て、荀彧は初めて心の底から満足げに目を細め、泣き震える細い肩を愛おしげに抱き寄せようと手を伸ばした。 ――その時である。 荀彧の知性によって完璧に制御されていたはずの室内の照明が、突如として不吉な警告のように明滅を始めた。チカチカという網膜を刺す光と耳障りなノイズと共に、壁に埋め込まれたスマートスピーカーから、意味を成さない無機質な機械音が不規則に垂れ流される。さらに、分厚い防音扉の強固な電子ロック部分が、内側からの拒絶を一切受け付けないまま、ひとりでに開錠のシークエンスを不気味に刻み始めたのだ。 「......ひっ!」 #name#は引き攣った悲鳴を飲み込み、ソファの上でガタガタと身を縮こまらせた。見えない恐怖の足音が、何者も寄せ付けないはずの密室の壁を透過してすぐそこまで迫ってきている。情報の全てを支配する満寵のハッキングが、ついに荀彧の不可侵の聖域であるシステム中枢にまで到達した、絶望の合図だった。しかし、荀彧は狂ったように明滅する照明の下、全く動じることなく、ひどく美しく薄い微笑みを浮かべている。焦燥感など微塵も存在しない。むしろ、この絶望的な状況の到来すらも完璧に計算済みで、激しく歓迎しているかのような、真っ黒に塗り潰された歓喜すら滲ませていた。 「これは。随分と野蛮なノックですね。ですが......丁度良いでしょう」 荀彧は恐怖に凍りつく#name#の背中に腕を回し、残された最後の逃げ場すらも奪い去るように強く抱き寄せた。耳元に触れるひんやりとした唇から、甘く、そして逃れようのない洗脳的な呪いが囁かれる。 「分かりましたか?私の管理下ですらこの状況......。私がいなければ、貴女は五分と生き延びられないのです」 「いや......っ、助けて......」 「ええ、助けてあげましょう。貴女がご自身の愚かさを認め、自ら私の庇護を乞うのであれば」 扉の強固な電子ロックが、ついに最後の一桁を突破されようと、絶望のカウントダウンを刻んでいる。扉の外に待ち構えているのは、データと命を容赦なく刈り取る冷酷な回収者たち。そして内にいるのは、正論で退路を塞ぎ、絶対的な支配を強要してくる狂気の保護者。誰が彼女を救うのか、ではない。誰が一番深く彼女を食い破るのか。逃げ場のない極悪非道な椅子取りゲームの音楽が、いよいよ囂しく鳴り響き始めていた。