《第5話》

狂気的なまでの静寂を守り続けていた分厚い防音扉の電子ロックが、ついに見えない暴力に屈し、力尽きたように重苦しい駆動音を立てた。システムの中枢が掌握され、#name#を外界から隔離していた最後の防壁が解除される。冷徹なプログラムが書き換えられたことを告げる無機質な警告灯が、血の如き赤で明滅し始めた。ひどくゆっくりと開かれた扉の向こう、薄暗く底冷えのする廊下の闇に溶け込むように立っていたのは、獲物を物理的に追い詰めることに特化した、感情を排した冷酷な瞳を持つ男――法正だった。 「時間切れだ、荀彧殿。その女の所有権は、既に俺のクライアントたる満寵殿の側へと移っている。大人しく引き渡してもらおうか」 地の底を這うような重く低い声には、言葉の裏に隠しきれない明確な暴力の気配が色濃く孕んでいた。ズシリと、法正が荀彧の聖域である室内へと容赦なく足を踏み入れる。高級な革靴が絨毯を踏み締める音が死神の足音さながらに響くが、#name#の華奢な肩を檻のように囲い込む荀彧は、眼前の圧倒的な殺気を受けてなお動じることなく、余裕すら感じさせる薄く冷たい笑みを口元に貼り付けた。 「実力行使ですか。随分と野蛮で非効率な手段を選んだものですね。法正殿、あなたがここで一歩でも物理的な危害を加えれば、債権回収業者としてのあなたの法的ライセンスは、完全に停止されることになります。それは、満寵殿の重んじる『効率』に反する結果を齎すのではないですか?」 「御託はいい。目的を果たすためなら手段は選ばないと、俺は既に証明したはずだぞ」 互いの決して相容れない知略と煮詰まりすぎたエゴが、密閉された狭い室内で激しく火花を散らして激突する。#name#は荀彧の腕の中でガタガタと身を竦ませ、酸素が薄くなったかのような絶望的な状況に息を詰まらせた。大蛇の睨み合いに巻き込まれた小鳥よろしく、ただ嵐が過ぎ去るのを待つことしか出来ない。正論と理詰めで精神の逃げ場を奪う男と、圧倒的な圧力で追い詰める男。どちらに転ぼうとも待っているのは破滅的な支配であり、救いなど最初から存在しないのだ。 息の詰まるような、一触即発の膠着状態。蜘蛛の糸一本で吊り下げられたガラス細工にも似て、ほんの僅かな衝撃で全てが崩壊しかねない危うさが部屋を包み込む。しかし、その張り詰めた空気を唐突に打ち破ったのは、このヒリヒリとした空間にはあまりにも場違いな、慌ただしく無防備な足音だった。 「失礼します!あ、あの......#name#殿は、こちらにいらっしゃいますか!?」 まるでドラマの救出劇のように、血相を変えて室内に飛び込んできたのは、端正なスーツ姿を乱して肩で荒く息をする青年――銀行員の曹休だった。その手には銀色のアタッシュケースと、数枚の分厚い公的書類がしっかりと握り締められている。 「曹休殿......なぜ、銀行員のあなたがここに?」 完璧だったはずの荀彧の計算に、初めて微かなノイズが走る。法正もまた、ペースを乱されたことに不快げな舌打ちをして暴力的な歩みをピタリと止めた。裏社会の理屈で構築された泥沼のコンゲームにおいて、表社会のルールである『金融機関の正規手続き』を盾に飛び込んでくる存在は、あまりにも想定外の異物すぎたのだ。 「#name#殿!ご無事でよかった......!あなたの口座に、極めて高度な不正アクセスの痕跡が確認されたのです。早急に口座を凍結し、ご本人確認と保護の手続きを取る必要があり、緊急で駆け付けました」 曹休は額に浮かんだ汗を拭いながら、心底安堵したような、どこまでも誠実で裏表のない表情で#name#の前に恭しく跪いた。 「手書きで構いませんので、この書類にサインを。それから、これは銀行が発行した緊急用のセキュリティ端末です。今後はこれで、俺とだけやり取りをしてください。あなたの財産と生活は、責任を持って保護しますから」 それは、底なしの暗闇に絶望していた#name#の前に垂らされた、細くも確かな蜘蛛の糸だった。 暴力と狂気に満ちた男たちの中で、唯一『社会の正常なシステム』と日常を守ろうとしてくれる、眩しいほどに誠実な青年。疑心暗鬼に陥っていた彼女の目に、曹休の姿は奇跡の救世主のように映った。彼が差し出したペンは、地獄の業火から救い出してくれる神の御手の如き輝きを放つ。震える手で彼からペンを受け取ると、これが最後の希望だと縋るように、#name#は勢い良く書類へとサインを書き込んでしまった。 「......三文芝居ですね。銀行員が個人的な保護者気取りですか」 荀彧が虫けらを見るような目で冷ややかに言い放つが、曹休の起こした行動は法的に見ても一切の隙が存在しなかった。口座の凍結と最高レベルのセキュリティ移行手続きを終えた時点で、#name#の『社会的な生存権』は一時的に曹休の所属する銀行の管理下へと置かれる。もしここで法正や荀彧が実力行使に出れば、『金融機関に対する明確な犯罪行為』として瞬く間に表沙汰になり、彼らの社会的な立場すらも危うくなるのだ。影で進行するゲームの暗黙のルールにおいて、それは絶対に犯してはならないリスクであった。 「手続きは全て完了しました。#name#殿、何かあればすぐに俺に連絡を。......それでは、俺はこれで」 曹休は深々と丁寧な一礼をすると、法正と荀彧の射殺さんばかりの冷たい視線を背中に受けながらも、足早にこの狂気の部屋を去って行った。 ――しかし。 重苦しい雑居ビルを後にして、冷たい夜風が吹き抜ける大通りへと一人で出たその瞬間。曹休の顔から、『誠実で人の良い銀行員』という完璧な仮面が、ドロリと泥のように滑り落ちた。 「......馬鹿な連中だ。あの程度の膠着状態、外部からの正規手続き一つで、容易く盤面がひっくり返るというのに」 周囲の暗がりに誰も居ないことを油断なく確認すると、曹休は氷のように低く冷酷な声で吐き捨てた。先程までの、#name#を救った青年の気配など微塵もない。そこにあるのは、高みから冷徹に状況を見下ろし、与えられた役割を完遂する『手駒』としての真の素顔だった。 月光に照らされたその横顔には、他者を欺き通した者の、底知れない愉悦が滲む。彼がスーツの胸元から素早く取り出したのは、先程#name#に渡した『緊急用端末』と対になる、特殊な小型通信機。曹休はそれを耳に当て、忠実な下僕の声色で発信した。 「――俺です。はい、全てあなたのシナリオ通りに進行しています」 通信の向こう側の闇に潜んでいるのは、この狂気じみた泥沼の椅子取りゲームを、遙か上空から神のように見下ろす審判者。 「対象の現在地と、他プレイヤーの手札はご指示通り確認しました。対象への発信機の引き渡しも完了しています。......彼女は俺の用意した端末を、命綱だと信じて疑っていません、子桓殿」 通信機越しに、微かな衣擦れの音と、絶対零度の氷塊のように冷たい吐息の気配だけが返ってくる。相手は、『ご苦労だった』という短く傲慢な応答以外は一言も発さない。しかし、姿すら見えないその圧倒的な存在感と支配力は、曹休の背筋をゾクゾクと心地良く痺れさせていた。まるで見えない鎖で魂まで縛り付けられているかのような、恐ろしくも甘美な服従感が彼の心を支配していく。 「ゲームは次のフェーズへと移行します。......あなたの裁定が下るその時まで、俺が盤面を掻き乱してみせましょう」 曹休の歪んだ笑みが、深く沈む夜の闇と一体化していく。 涙ながらに握り締めた唯一の救いの糸は、最も残酷で冷徹な支配者へと直接繋がる、逃れようのない見えない鎖。誰も信じられない極悪なゲームは、いよいよ本命のプレイヤーの影を落とし、全く新たな絶望へとその鋭い牙を研ぎ始めていた。