《第6話》
肌を刺すような冷たい夜風がビルの谷間を吹き抜ける、不衛生な雑居ビルの路地裏。荀彧の構築した密室から出てきた曹休は、通信機越しに見えざる支配者への報告を終えると、再び『誠実で人当たりの良い銀行員』の完璧な仮面を被り直して、夜の闇の中へと静かに消えていった。
その規則的な足音が遠ざかった後。通りの死角――不法投棄された巨大コンテナの陰から、どろりとした一つの影が音もなく滑り出る。
「......なるほど。そういうスキームだったのか」
郭嘉は、黴の生えたレンガの壁に力なく寄りかかりながら、忌々しげに前髪を掻き上げた。先程、荀彧の容赦ない正論に完膚なきまでに敗れ去り、無様に放り出された後も、彼は決して自身の『手駒』である獲物を諦めてなどいなかったのだ。盤面の外側から虎視眈々と包囲網の綻びを探っていた彼の耳に、曹休の不自然な通信と独り言が飛び込んできたのはまさに僥倖であった。外部からの『正規手続き』という表社会の抜け道を利用し、#name#を荀彧の安全圏から連れ出すための完璧な布石。そして、誠実な銀行員の仮面の下に隠された、曹丕という絶対的な黒幕への狂信的な忠誠。
「彼女に発信機を渡した......へぇ。これは#name#殿の奪還に、大いに使えそうだね」
郭嘉の端正な唇の端が、三日月のように歪に吊り上がる。手元からこぼれ落ちたと思われていた細い手綱が、再び指先に触れた瞬間だった。暗闇の中で冷たい笑みを深めると、郭嘉は次なる盤面をひっくり返すための『アライアンス』を構築すべく即座に身を翻す。
同時刻。都心の空を切り裂く高層オフィスビルの一室。壁一面に設置された巨大なモニター群が青白い光を放ち、無機質な金融データを絶え間なく滝のように流し続けている。姜維と劉備。損得の計算と、社会的弱者を救う正義。決して交わることのない平行線の対立は、不意に鳴り響いた強固な電子ロックの強制解除音によって唐突に断ち切られた。
「夜分遅くに申し訳ないね。少しばかり、君たちのアジェンダに混ぜてもらえないかな」
足音すら立てず静かに入室してきた郭嘉は、警戒の色を強める二人の視線を気にも留めず、悠然とした足取りで歩み寄ると、空いている高級チェアに深く腰を下ろした。
「郭嘉殿......。あなたの不用意で非合理的な行動のせいで、私の口座まで監視の致命的なリスクに晒されたのですよ。今すぐ退出していただきたいですね」
「待て、姜維殿。彼がここに来たということは、何かこの絶望的な状況を覆す札を持っているのだろう」
リスクを嫌い冷酷に切り捨てようとする姜維を制止し、劉備が獲物を狙う鷹のような鋭い眼光を郭嘉へと向けた。ジャーナリスト特有の、真実を暴くことへの異常なまでの飢餓感に満ちた瞳。郭嘉は小さく肩を竦め、事も無げに切り出した。
「単刀直入に言おう。実は先程、荀彧殿の部屋で膠着していた盤面が動いた。曹休殿が、銀行の『正規手続き』という名目で介入してきたんだよ」
「曹休殿だと?確かに、彼なら金融ネットワークから異常を直ちに検知できるだろう。だが、あの男がこのゲームに首を突っ込んでくるとは到底思えないが......」
劉備の真っ当な疑念に対し、郭嘉は冷たい嘲笑を漏らした。
「そこが最大のブラインドだよ。あの誠実な銀行員は、裏で曹丕殿と繋がっている。#name#殿に発信機を渡し、私たちの動向を全て彼に報告していた。つまり、この不毛で狂ったゲームを盤面の外から見下ろしている最大の黒幕は、曹丕殿ということだ」
その名が出た瞬間、室内の空気が一気に凍りついたように張り詰めた。曹丕――表の財界から裏社会の深淵に至るまで、あらゆる権力と情報を掌握し、冷酷に裁定を下す絶対的なジャッジメント。
「......なるほど。曹丕殿が裏で糸を引いているとすれば、恩師の不自然な失踪も、巨大な不正資金の隠蔽工作も全て完璧に辻褄が合いますね」
姜維が顎に手を当て、即座に脳内で天文学的なリスクとリターンの再計算を始める。いつもの凛とした氷のようなその声には、予測を超えた事態に対するわずかな渋味が混ざっていた。
「真実を隠蔽する巨悪の存在……。ならば、その黒幕の尻尾を確実に掴み、世間の白日の下に引きずり出して見せよう」
劉備が強く拳を握りしめ、その瞳に狂気的なまでの正義感の火を点したのを確認すると、郭嘉は内心でドロリと冷たく舌を出した。
(単純で助かるよ。君のその暑苦しい正義感は、最高のデコイとして、極めて優秀な費用対効果を発揮してくれそうだ)
郭嘉の目的はただ一つ。権力と知略を駆使して#name#を強引に奪還し、もう誰の手も届かない場所へ閉じ込めること。その過程において、劉備や姜維という駒を利用し尽くした後で無慈悲に裏切ることなど、彼にとっては呼吸をするのと同じくらい当然のプロセスだった。
「意見は一致したね。まずは、曹休殿の足取りから曹丕殿の所在を炙り出そう。三人でジョイントベンチャーの立ち上げといこうか」
郭嘉の滑らかな提案により、ひどく歪な一時的同盟が成立する。それぞれが全く異なる欲望と目的を腹の底に隠し持ったまま、三人の男たちは曹丕というあまりにも強大な敵へと矛先を向けた。
――しかし、彼らは決定的な事実を致命的に見落としていた。
都市の最下層に位置する片隅、窓という窓を全て塞いだ巨大なサーバー群の並ぶ暗室。何十面ものディスプレイが放つ冷たい光に囲まれた空間で、満寵はキーボードの上で流麗に指を遊ばせながら、喉の奥でクツクツと楽しげな笑い声を漏らした。
「三人寄れば文殊の知恵って言うけど……実に非効率な烏合の衆だね。こんなにも無防備な密談を、垂れ流しにするとは」
正面の巨大なメインモニターには、姜維のオフィスに設置された防犯カメラの映像が極めて鮮明に映し出されていた。そしてスピーカーからは、郭嘉たちがたった今交わした『曹丕の炙り出し』に関する計画の全容が、一言一句漏らさず再生されている。
#name#と郭嘉が瀟洒なレストランで食事をした、あの夜。郭嘉が公衆電話から姜維へ連絡を取ったという事実を法正から報告された満寵にとって、オフィスのシステムを特定することなど赤子の手を捻るよりも容易かった。郭嘉が同盟を持ちかけるよりも遥か前に、満寵は堅牢なはずのセキュリティに巧妙なバックドアを仕掛け、彼らの会話を網羅的に傍受する体制を整えていたのである。
郭嘉たちは、自分たちの知略によって誰よりも早く黒幕へと到達したと滑稽な錯覚に陥っている。だが、現実は違った。彼らは見えない支配者の広大な手のひらの上で、無意味なダンスを踊らされているに過ぎない。
「曹休殿の裏の顔……そして曹丕殿の存在。郭嘉殿、貴重な情報提供に感謝するよ。これで、大幅に効率化して次の工程に進むことができるね」
満寵の冷たい指先が流麗な軌跡を描き、システムに致死のコマンドを打ち込んでいく。狙うのはオフィスのシステムではない。郭嘉の言葉から得た情報を元に、曹休が所持している緊急用端末の通信記録を即座に逆探知することだった。数秒後、漆黒の画面に緑色の文字列が怒涛のように流れ、何重にも暗号化された複雑な通信経路が次々と無慈悲に暴かれていく。そして一本の細いデータリンクが、ついに暗闇の奥底に座す存在へと繋がった。
「見つけたよ……曹丕殿」
満寵は氷のように薄い笑みを浮かべたまま、その極秘の通信回線へと、たった一通のテキストメッセージを送信した。
『近いうちに、嗅覚の鋭い記者があなたの存在に辿り着きます。......どうぞ、ご注意を』
暗闇の中で、送信完了を告げる無機質な電子音が微かに鳴り響く。それは、泥臭い正義感に駆られる劉備を絶対的な権力者の標的としてロックオンさせる、あまりにも残酷な死の宣告だった。男たちが己の知略を誇り、出し抜いたと嗤い合うその背後で、見えない強敵による最悪のジャッジメントが下されようとしている。誰も救われない極悪非道な椅子取りゲームの盤面は、底なしの泥沼へとさらなる絶望の深みを見せ始めていた。