《第7話》

システムを掌握され、外界との境界を隔てていたはずの強固な防音扉は、無残にも大きく開け放たれていた。静寂に支配されていた室内は今や、肌を粟立たせるような異様な緊張感と、血の匂いすら錯覚させるほど剥き出しの殺意によって濃密に満たされている。 「銀行の手続きがどうした。俺の仕事は、対象を確実に満寵殿の元へ連行することだ。物理的な障害は、全て排除する」 曹休が表社会の正規ルートを利用して残していった法的な膠着状態すらも、法正の狂気的なまでの暴力の意思を止めるには至らなかった。黒服の債権回収者は獣のような鋭い殺気を放ちながら、#name#を自身の檻へと匿う荀彧へ容赦なく距離を詰めていく。対する荀彧も、怯える彼女の肩を抱き寄せたまま決してその手を離そうとはしなかった。彼にとって彼女は、自らが構築した論理の檻の中で、己の完全な支配下においてのみ完璧に飼育し、慈しむべき対象なのだ。 「法正殿、あなたは本当に愚かですね。ここで実力行使に出れば、金融機関のみならず警察組織という公権力をも明確に敵に回すことになる。それは満寵殿の重んじる『効率』から、致命的に遠ざかる結果ですよ」 逃げ場を奪う冷徹な正論と、あらゆる理屈をねじ伏せようとする暴力。交わることのない二つの理不尽な脅威が、#name#を挟んで正面から激突しようとした、まさにその時だった。 「あの......すみません。さっきから、随分と騒々しいようですが」 張り詰めていた殺気と論理の糸を、間の抜けた、しかし不思議とよく通る声が唐突に切り裂いた。薄暗い廊下の静寂を破って現れたのは、肉厚のパーカーに身を包んだ長身の男であった。無造作に跳ねた黒髪に、少し疲労の滲むような目元。狂気と欲望が渦巻くコンゲームの盤面において、その風貌はあまりにも無防備で、拍子抜けするほど『普通』すぎたのだ。裏社会の情報を網羅しているはずの荀彧も、回収対象の周囲を調べ尽くしている法正も、その予期せぬ闖入者の顔には一切の見覚えがない。 「何かトラブルですか?壁越しでも怒鳴り声が聞こえてきて......その、あまり穏やかじゃない雰囲気ですよね」 男の名は、徐庶といった。荀彧の部屋の隣室に住む、ただの一般人である。だが、この異常な状況下において、血の匂いを纏う法正を前にして一歩も引かないその胆力は、どう見てもただの一般人とは言い難い不気味さを孕んでいた。 法正は不快げに舌を打ち、人を殺し慣れた威圧的な視線で徐庶を真っ直ぐに睨み付けた。常人であれば、その獰猛な眼光に射抜かれただけで足が竦み上がり声も出せなくなるはずだが、徐庶は怯えるどころか、手に持っていたスマートフォンの画面を淀みなく操作してみせた。 「揉め事なら、警察を呼びましょうか?こんな時間ですし、近所迷惑にもなりますから」 その一言が、確かな効力を持って狂気の男たちの手足を縛り付けた。 警察――表社会における、正当な公的武力の介入。それは、非合法なルールで暗躍する彼らにとって、何よりも避けなければならない致命的な事態である。満寵の高度なハッキングも、法正の強引な回収も、荀彧の病的な監禁も。白日の下に晒されれば彼らの構築したスキームは全て音を立てて破綻し、身の破滅に直結するのだ。 「......チッ。部外者が、余計な真似を」 法正の纏っていた濃密な殺気が、忌々しさと共に急速に霧散していく。『通報』という、一般人だけが切ることのできる最強のジョーカーを突き付けられた以上、強行突破はリスクが高すぎた。彼は憎々しげに#name#を一瞥すると、舌打ちを残し、踵を返して夜の暗い廊下へと消えていった。 最大の暴力という脅威が去った後、徐庶は荀彧の腕の中でガタガタと震え上がっている#name#へと静かに視線を移した。 「君、大丈夫かい?すごく顔色が悪いようだけど」 「#name#殿は私の保護下にあります。隣人とはいえ、これ以上の介入は不要です」 荀彧が氷のような正論で冷たく遮るが、徐庶は困ったように眉を下げながらも、決して退こうとはしなかった。 「保護って......彼女、すごく怯えてるじゃないか。警察を呼ばない代わりに、彼女は俺の部屋で休ませるよ。これ以上、騒ぎを大きくしたくはないだろう?」 正当性という名の逃げられない檻を構築する荀彧に対し、徐庶は『世間の常識』というさらに巨大で厄介な檻を被せて、その動きを封じ込めた。荀彧の完璧な計算に、想定外のエラーが生じている。ここで徐庶と押し問答を続ければ、この正義感の強い隣人が本当に通報するリスクは避けられない。そう悟った荀彧は、致し方なく#name#の腕を離した。 「......仕方ありませんね。ですが#name#殿、忘れないでください。外界がどれほど悪意と危険に満ちているか、貴女は既に身を以て理解しているはずです。いつでも私の元へ戻ってきてください」 背筋を這い上がるような甘く歪な呪いの言葉を背に受けながら、#name#は徐庶に導かれるまま、逃げるようにして隣の部屋へと駆け込んだ。背後で荀彧の部屋の重い扉が閉まる音が、まるで一つの悪夢の終わりを告げるように響き渡る。 徐庶の部屋は、几帳面に整頓こそされていないものの、生活感のある温かく柔らかい空気に満ちていた。本棚にはビジネス書が並び、ローテーブルの上には飲みかけのお茶が置かれている。荀彧の無機質な無菌室とは違う、どこにでもある一人暮らしの青年の、何の変哲もない部屋だ。 「狭くてごめんね。怪我はないかい?」 徐庶は優しく人懐っこい微笑みを浮かべると、キッチンのポットで手際よく湯を沸かし始めた。 「あの......助けていただいて、本当にありがとうございます」 「気にしないでくれ。隣からあんな怒声が聞こえたら、誰だって心配するよ。......ああ、俺は徐庶。ここでリモートワークをしている、しがない会社員さ」 徐庶の淹れた温かいココアを受け取り、#name#は震える唇で一口啜った。甘く優しい温度が、限界まで張り詰め、凍りついていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。郭嘉の甘い欺瞞、満寵の監視網、法正の容赦ない暴力、そして荀彧の異常な束縛。狂った男たちの黒い渦に巻き込まれ、疲弊しきっていた彼女にとって、徐庶の存在は暗闇に差し込んだ一筋の眩しい光だった。彼だけは違う。裏社会の事情など何も知らない、ただの親切で常識的な一般人に違いない。 「少し休むといい。君が落ち着くまで、ここにいていいから」 徐庶は#name#の頭をポンと優しく撫でると、部屋の隅にある無骨なデスクへと向かった。 「ごめん、少しだけ仕事の連絡を返してもいいかな。急ぎの案件が入っていてね」 徐庶は、一般企業の社員が自宅作業に使うには明らかにオーバースペックな、複数の大型モニターが並ぶデスクトップパソコンの前に座り、キーボードを叩き始めた。カタカタという淀みなくリズミカルなタイピング音が、静かな室内に心地よく響く。『進捗はどうだい?』と、画面の向こうの同僚らしき相手とチャットをしているようだが、ハッキングさながらの凄まじい速度で文字列を打ち込むその手元と、真剣な眼差しでモニターに向かう横顔は、ごく普通の誠実な社会人そのものに見えた。 #name#はソファに深く身を沈めながら、その頼もしい背中を見つめていた。外界の悪意から切り離された、唯一の安全圏。彼が淹れてくれたココアの甘い香りに包まれながら、#name#は久方ぶりに、心からの安堵の息を長く吐き出したのだった。