《第9話》

もぬけの殻となった無機質な密室。荀彧は、先程まで獲物が恐怖に震えながら身を縮こまらせていたソファの窪みを、感情の抜け落ちた冷徹な眼差しで静かに行き来させていた。見落としの無いように執拗になぞるその指先は、夜の静寂に溶けて消えかけた微かな残温を残酷なほど正確に拾い上げている。 「『常識』という名の盾ですか。計算外ではありましたが、それもまた脆い論理に基づいた一時的な避難所に過ぎません」 彼は淹れ直したばかりの、既に冷めきって渋みの増した紅茶を、まるで無価値な泥水でも捨てるかのように無造作にシンクへと流し捨てた。#name#が隣室の住人と共に姿を消してから、もう数時間が経過している。だが、彼の理知的な瞳に焦燥の色は皆無だった。自身の手から一時的に逃れたところで、盤面全体が彼女にとって地獄であることに変わりはないのだ。 荀彧は音もなくデスクに向かうと、一つの高度な解析プログラムを起動させた。それは、#name#のスマートフォンのログを徹底的に解剖し、思考回路と行動パターンを冷酷にシュミレーションした『論理的追跡』の結実である。 「貴女は戻ってきますよ、#name#殿。私が用意した、この正論の檻の中へ。外界が貴女にとってどれほど残酷で、無慈悲な場所であるかを、その身に刻んであげましょう」 彼はただ淡々と事実と根拠、そして結果だけを計算し尽くしている。モニターの青白い光りに照らされたその横顔には、逃げ惑う獲物が自ら網に掛かるのを待ち侘びる捕食者の笑みが張り付いていた。 静かに打たれたキータッチ。それは、#name#の職場の元同僚や関係者へ向けた、一見すると事務的だが、#name#にとっては社会的な居場所を根こそぎ奪い『ここへ戻らざるを得ない』致命的な追い込みを掛ける偽造メールの送信ボタンだった。表社会での繋がりを論理のメスで寸分違わず解体し、誰にも頼れない状況を作り出す。外堀を埋め立てて自分だけに依存させてから愛でること。それこそが、この男が仕掛ける歪で病的な監禁の形であった。 同じ頃。視界を遮るほど激しく降り頻る冷たい雨の中、劉備と姜維は曹丕の巨大な影が潜むとされる臨海地区の寂れた倉庫街へと車を走らせていた。 「姜維殿。ここから先へ進めば、もう後には退けない。奴の悪事を暴き、#name#殿を救い出す。それが私の、ジャーナリストとしての使命だ」 「理想を語るのは勝手ですが、劉備殿。この資金洗浄のルートを辿った先に待っているのは、正義ではなく、我々の破滅かもしれませんよ。リスク管理が追いつきません」 フロントガラスを打ち据える凄まじい雨音の中、姜維はタブレットの画面を見つめ、不快げに端正な眉を寄せた。曹休から得た情報を元に、彼らは曹丕の『心臓部』へと誰よりも早く到達したつもりでいたのだが――。 二人が錆びついた倉庫の重い扉を警戒しながら開けた先に待っていたのは、求めていた真実の証拠ではなかった。 「......何だ、これは」 劉備が絶望に息を呑み、絶句する。広大な空間の奥。そこには、#name#の恩師が失踪した当夜の監視カメラ映像が、巨大なプロジェクターによって無機質にループ再生されていた。そして、その残酷な映像を見つめるように暗闇の中に整然と並ぶ、曹休が率いる武装した警備員たちの姿。彼らは一糸乱れぬ動きで、侵入者へと銃口を一斉に向ける。 「飛んで火に入る夏の虫、とはお前たちのことだな」 ノイズ混じりの通信機から、曹休の感情を排した冷酷な声が響く。それは真実への救済などではなく、盤面を天から見下ろす曹丕が、身の程知らずな『羽虫』を捕食するためだけに用意した極上の罠だった。劉備の泥臭い正義も、姜維の冷徹なリスク計算も、頂点に君臨する権力者のジャッジメントの前では、あまりにも無力で滑稽な児戯に等しかったのだ。闇の奥から漂う鉄の匂いが、彼らのささやかな希望を容赦なく打ち砕く。 激しい雨音すらも厚い壁に阻まれて届かない、徐庶の部屋。#name#は、彼が用意してくれた柔らかい毛布にすっぽりと包まり、凍り付いていた体の芯から少しずつ温かさを取り戻していた。 「少しは落ち着いたかい?君がそんなに震えていると、俺まで悲しくなってしまうよ」 徐庶は優しく、人懐っこい微笑みを浮かべながら、甘い香りと共に湯気の立つココアを差し出した。彼の何気ない動作、部屋に漂う穏やかな生活の匂い、そして自分を盤面の駒としてではなく『ただの人間』として扱ってくれるその温かさ。#name#の心から、限界まで張り詰めていた鋭い警戒心が、泥のようにドロドロと溶け落ちていく。 「徐庶さん......ありがとうございます。私、あんなに怖い思いをしたの、初めてで......」 「そうか。でも、もう大丈夫だ。......ああ、そういえば。君はココアに砂糖入れる派?俺はいつも三つ入れてるよ」 その、何の変哲もない日常の、何気ない一言だった。徐庶が柔和な声で口にした「砂糖、三つ」という、ごく個人的で、ありふれた言葉。 (――パスワードは、甘やかされた記憶の中に隠しておくよ) 失踪直前、恩師が耳元で優しく囁いた言葉が、脳裏で強烈な光を伴って鮮明にフラッシュバックする。砂糖、三つ。埃っぽい研究室で、いつも彼が淹れてくれた、舌が痺れるほど温かく甘い飲み物。 「......あ」 ココアのマグカップを握る#name#の指先が、微かに震えた。これまでどんなに考えてもずっと思い出せなかった、あの忌まわしい暗号化ファイルを解くための鍵。それは複雑な数式でも、特別な日付でもなかった。恩師と二人だけの、取るに足らない、しかし確かに幸福だった時間の断片。 「思い......出した。パスワード......。シュガー、スリー、ゼロ......」 無意識に零れ落ちたその小さな呟き。その直後、徐庶の背中が獲物の急所を捉えた肉食獣のように、一瞬だけ不自然に硬直した。しかし、#name#はそれに気付かない。ゆっくりと振り返った徐庶の瞳には、先程までの善良な青年の面影はなく、見たこともないほど深く、底知れぬ暗い色が宿っていた。それは仮面の下で牙を研いでいた野獣の本性を、露わにした刹那に他ならない。表社会の殻を破り、彼が隠し持っていた『真の役割』を剥き出しにしようとした――その時だった。 「――おしゃべりが過ぎるよ、#name#殿」 鼓膜を破るような激しい破壊音と共に、頑強なはずの玄関のドアが蝶番ごと吹き飛び、容赦なく蹴り開けられた。 鼻を突く硝煙の匂いと共に室内に踏み込んできたのは、不敵で狂気に満ちた笑みを浮かべる郭嘉だった。夜の嵐を連れて現れた死神の如き佇まいは、優美でありながらも絶対的な支配力を放っている。彼は手にした端末の光る画面を#name#に見せつけ、逃れようのない残酷な真実を突き付けた。 「君がその隣人と楽しそうに思い出話をしている間に、君の持っているデータの価値は最高値を更新したよ。......さて、徐庶殿と言ったかな?君の『優しい隣人ごっこ』はここで終了だ。彼女をこちらに渡してもらおう」 郭嘉の手にある鈍色の銃口が、躊躇なく徐庶の眉間へと真っ直ぐに向けられる。安全圏だと思い込んでいた温かい部屋は、#name#のたった一つの告白によって、最も血生臭く冷酷な戦場へと姿を変えた。張り詰めていた一本の糸が断ち切られるが如く、偽りの平穏は一瞬にして崩壊していく。恩師のファイルの鍵が開かれた瞬間、男たちの極悪非道な椅子取りゲームは、破滅的な終焉へと向けて狂った不協和音を奏で始めたのだった。