《第1話》
時計の針が、草木も眠る午前二時を回った頃。
万年寝不足のマンション住人・#name#は、自室のベッドの上で暗闇を見つめながら、完全なる虚無と化していた。彼女の目の下には、もはやコンシーラーを何重に塗りたくろうが隠しきれない立派なクマが深く刻まれている。マンション一階にあるコンビニでの過酷な夜勤生活に加え、この部屋に引っ越してきてからというもの、彼女は『安眠』という概念をすっかり奪われていたからだ。
原因は明確である。
『ドッ!ワハハハハ!!』
防音材が一切仕事をしていないペラペラの薄い壁を隔てた向こう側から、今日も絶好調なバラエティ番組の笑い声が漏れ聞こえてくる。それに重なるように、深夜にはおよそ似つかわしくない、かなり張りのあるデカい独り言が壁を貫通してきた。
『......いや、俺はそうは思いませんね。今のくだりは少々短絡的すぎます。俺でしたら、もっとこう......ええ、巧妙に間を取ってからボケの角度を変えますが』
まるで誰かと熱心に談笑しているのかと錯覚するほどの、流暢でハッキリとした喋り声。手元にあるであろうグラスの氷がカラン、と溶ける音までクリアに聞こえてくるのが余計に腹立たしい。本当に誰かと居るのだろうか......?いや、断じて否である。彼は一人だ。
隣室に住むカラオケ店員の男、荀攸。彼は素面の時こそ、メニューを迷う客に「早くしてください」と言い放つ無気力な省エネ人間のくせに、一度アルコールが入ると『無限に喋り出す』という厄介極まりないバグを抱えていた。しかも、あの死んだ魚のような無表情でテレビ画面を見つめながら、ご丁寧にきっちりとした敬語で映像の中の芸人にダメ出しをしているのだから、ホラー以外の何物でもない。
(頼むから寝てくれ......明日の夜勤が辛くなる......私の睡眠時間を返して......)
半分ゾンビと化した顔で恨み言を脳内に垂れ流し、#name#が無意識に布団を頭から深く被った、まさにその時。
ピンポーン!
深夜の静寂を無情にも切り裂く、来客を告げる無機質な電子音。繰り返すが、現在は午前二時である。
ガチャリと隣室のドアが開く音が響き、#name#は布団の中で目を丸くした。こんな非常識な時間に、一体誰が訪ねて来たというのか。
『夜分遅くに失礼致します、公達殿。本日の配給をお持ちしました。良質なパンの耳です』
『おや、文若殿......。こんな時間まで直売所を回られていたのですか。ありがとうございます。遠慮なくいただきますが......それにしても、相変わらずすごい量ですね』
『ええ、今日は大収穫でしたので。どうかお気になさらず』
壁越しに聞こえてくるのは、聞き馴染みのある爽やかで酷く上品な声と、それを迎え入れる荀攸の落ち着いた声。一見すると、由緒正しき紳士たちの美しい交流である。やっていることが『深夜のパンの耳の押し付け合い』でなければ、の話だが。
しかし、#name#の知らない隣室の玄関先では、音声以上に恐ろしい『視覚的暴力』が繰り広げられていた。
ドアを開けた荀攸が身に纏っていたのは、マンション管理人である諸葛亮から無理やりプレゼントされた『ハローキティのなりきりスウェット』である。フード部分には巨大なキティの顔面が鎮座しており、無表情な荀攸の頭上でリボン付きの猫が虚無の瞳を向けているという、地獄のような出で立ちだった。
対する訪問者、荀彧の格好も常軌を逸している。戦時中からタイムスリップしてきたかのような『たたみ柄の丈足らずもんぺ』に、サイズ感を完全に無視した『毛玉だらけのダボダボパーカー』。法廷で有罪をも無罪にひっくり返すハイパー凄腕弁護士の威厳など、そこには微塵も存在しない。ただただ、圧倒的な服のセンスの無さが二人の間に暴力的な空間を作り出している。しかも両者の間には、スーパーの薄っぺらいビニール袋に詰められた大量の『パンの耳』が厳かに滞空しているのだから、もし第三者がこの光景を目撃すれば脳の処理が追いつかず発狂するに違いない。
『......せっかくですので、文若殿も少し飲んでいかれませんか?ちょうど、俺も一人で退屈していたところですから』
『よろしいのですか?では、お言葉に甘えて少しだけお邪魔いたしましょう』
(......え、嘘でしょ。帰れよ、今すぐ)
#name#の切実な祈りは、無情にも届かない。一人でさえ騒音公害だった隣室に、あろうことか話し相手が追加されてしまったのだ。パンの耳を抱えた荀彧が部屋に上がり込んだことで、荀攸の饒舌バグはついに限界を突破した。
『――ですから、俺が常々申し上げているのは、あのテレビ局の編成の甘さについてですよ。文若殿はどう思われますか?俺に言わせれば、あの時間帯にあの司会者を起用する時点で......』
『なるほど。確かに公達殿の仰る通り、法的な観点から見てもあの発言は少々リスクが高いと言わざるを得ませんね。私としましても......』
『話し相手』という最高の燃料を投下された荀攸の口から、もはや途切れることのない大音量の演説が機関銃のように放たれ始めた。相槌を打つ荀彧の声も相まって、隣室からは休む暇もないノンストップの討論会が響き渡る。壁越しに聞こえる美声の二重奏は、もはやちょとした地鳴りであった。
(......深夜二時に、パンの耳をアテにして討論する内容じゃない......寝ろよ!!)
直接壁を叩いてツッコミを入れる気力すら削がれ、#name#は明日の夜勤でレジの違算を出さないことだけを神に祈りながら、そっと両耳を塞ぎ、白目を剥いて意識を手放す努力を始めるのだった。