《第2話》

『――ですから、近頃は直売所でも三枚切りの山型食パンが手に入りにくく、心苦しくも五枚切りで妥協せざるを得ない状況が続いておりまして』 耳栓の防御力を軽々と貫通してくる、上品でよく通るバリトンボイス。真夜中に強制再生された荀彧による『地獄のパン事情オーディオブック』を子守唄代わりに、#name#がどうにか無理やり意識を手放してから、数時間が経過していた。なぜ有能な弁護士が夜な夜なパンの厚さについて熱弁を振るっているのか、その不条理にツッコミを入れる気力すら、今の彼女には残っていない。 翌朝、午前八時四十分。冬の気配を感じさせる冷たい朝日が差し込む中、#name#はようやく重たい瞼を持ち上げた。 「......五枚切り......いや、山型は......」 寝ぼけた脳味噌は、いまだに深夜のパンラジオの電波を受信し続けている。虚空を見つめて自己暗示のように呟くその姿は、完全に洗脳済みのそれだ。 ゾンビのようにフラフラとベッドから這い出した彼女は、完全に焦点の合っていない虚無の瞳のままキッチンへと向かい、目覚めのブラックコーヒーを淹れた。マグカップを両手で包み込み、一口啜る。カフェインが胃の腑に落ちていくのを感じながら、彼女は静かに息を吐き出した。 (......今日も今日とて、最悪の目覚め。私の安眠は一体どこへ消えたの) #name#の部屋があるそこは、文字通りの『激戦区』である。睡眠不足による頭痛と、常人なら三日で精神が崩壊する騒音のコンボ。生半可な人間ならとうに逃げ出している環境だが、幸か不幸か『狂人耐性』を持つ彼女の強靭なメンタルが、ギリギリのところで自我を保たせていた。 隣室からは、夜な夜な酒気を帯びた男たちの終わらない演説や、パンへの異常な愛が響き渡る。だが、彼女の睡眠を妨害する魑魅魍魎は、決して隣だけではない。 ズガッ!ズガガガガガッッ!!ギュイィィィン!! (......そう、上は上で、深夜にもかかわらず木材を削り出すし) 彼女の真上の部屋、すなわち四階の角部屋には、満寵という男が住んでいる。職業は不動産屋のトップセールスマン。圧倒的な知識と穏やかな人柄で契約を勝ち取るやり手だと聞いているが、その実態は、整理整頓の概念が完全に死滅した『重度の建築DIYオタク』である。深夜になると、何かに取り憑かれたように電動工具を唸らせ、凄まじい物理騒音を響かせるのだ。昨夜も、ウィィィン!!という木材を研磨する軽快なサンダーの音や、ドリルが壁を貫通しそうな振動がダイレクトに天井から伝わってきていた。しかも、時折かすかに『木のいい匂い』まで換気扇を伝って降りてくる始末である。隣が『精神を削る話し声の騒音』なら、上は『鼓膜と部屋の基礎を破壊する物理の騒音』だ。 「......引っ越し、たい......けど、家賃が......」 家賃の安さという好条件に目が眩んで、勢いのまま入居したこの部屋。その魅力的な賃料と職場まで徒歩三分の『利便性』に雁字搦めにされている#name#は、引っ越しという文字が頭に浮かんだところで身動きはできない。 そんな虚しい嘆きがキッチンに溶けた、まさにその時だった。 カンカンカンカンカンカンッ!! 突如として、キッチンのすぐ横にある外の非常階段から、金属を激しく打ち付けるような凄まじい足音が響き渡った。親の仇を追っているのかと思うほどの、猛烈なダッシュ音である。 (......出た。今日も元気だな、上の非常識セールスマン) 満寵の部屋はエレベーターホールから一番遠い角部屋であるため、彼は移動距離を最短に抑えるべく、必ずこの非常階段を利用するのだ。 #name#がマグカップを片手に、キッチンの窓の隙間からそっと非常階段を覗き込むと、そこには想像を絶する光景が広がっていた。 「おっと、これはまずいな。九時からの商談に間に合わない......!」 口に『野菜生活』の紙パックを起用に咥えながら、モゴモゴと叫んで駆け下りてくる一人の男。顔立ちはすれ違う人が思わず振り返るほどの爽やかイケメンで、普段見せる微笑みは誰もが気を許してしまうほどの包容力があるのだが、今の出で立ちはあまりにも終わっていた。 微妙に整っていない無造作な......と言うより、寝癖のついた尻尾髪。ラフなスーツ姿は一見スタイリッシュだが、よく見ればワイシャツのボタンが見事に一段ずつ掛け違えられており、ネクタイも胸ポケットに雑に突っ込まれている。何より異常なのは、彼が両腕に『謎の長いツーバイフォー木材』と『プロ仕様の巨大な丸ノコ』を大事そうに抱え込んでいることだ。 (......不動産の商談に、木材と電動工具?家を売る話に関係ないでしょ。それとも、モデルルームを建ててプレゼンする気か?) 窓の隙間から呆れ果てた視線を送る#name#の目の前を、満寵はものすごいスピードで駆け抜けていく。その整った顔に焦りの色はなく、むしろ己の完璧なスケジュール管理に酔いしれているような清々しさすらあった。そして、彼が背中を見せた瞬間、#name#の視界にさらなるシュールな景色が飛び込んできた。 「築城、計略、抜かりなく......!すべては完璧な段取りで......!」 口に野菜生活を咥えたまま器用に持論を唸る満寵の背中では、彼が小脇に抱えた長い木材の先端に引っ掛けられたビジネスバッグが、まるで『釣り竿に引っ掛けられたバケツ』のように、ゆらゆらと虚しく揺れていた。明らかに中身の重要書類が遠心力と振動でぐちゃぐちゃの紙屑と化しているであろうそのカバンを背に、満寵の足音はあっという間に遠ざかっていく。 「......抜かっているのは、あんたのワイシャツのボタンと荷物の持ち方だよ......」 しわくちゃの契約書でどうやって個人契約数No.1の座をもぎ取っているのか、もはや不動産業界の七不思議である。毎朝恒例となっている嵐のような奇行を見送りながら、#name#は完全に冷めきった瞳でコーヒーを啜る。 今日もまた、魑魅魍魎の住まうマンションの、騒がしくも狂った一日が始まろうとしていた。