《第3話》
午前四時。一階のコンビニでの過酷な夜勤を終えた#name#は、引き摺るような足取りで自室へと帰り着いた。鍵を開け、薄暗い玄関に崩れ落ちるように座り込む。彼女のHPはすでにゼロを通り越してマイナスを振り切っていた。
「......まだやってるよ、あの人たち......」
静寂に包まれているはずの深夜のマンションにおいて、彼女の隣室だけは完全な異次元空間と化していた。壁の向こうから、今日も今日とて荀攸と荀彧の声が聞こえてくる。
『ですから公達殿、油で揚げるのはカロリーの観点から推奨できません。やはりここはシンプルに、少量のオリーブオイルと砂糖で......』
『いえ文若殿、それだけではパンの耳のポテンシャルを殺してしまいます。ここは思い切って、たっぷりのバターで少し焦げるくらいまで......』
どうやら本日の深夜議事録のテーマは、『いかにして配給されたパンの耳を最高に美味しく調理するか』らしい。なぜ夜勤明けの限界を迎えた脳味噌で、隣室の男たちのパンの耳アレンジレシピを強制的にヒアリングさせられなければならないのか。#name#は理不尽さに泣きそうになりながら、両耳に耳栓を深く差し込み、泥のようにベッドへ倒れ込んだ。
しかし、安息の時間は長くは続かない。わずか三時間後の、午前七時。
ドスッ!ドスドスドスッ......!!
「......はっ!」
天井から響く、凄まじい地響きのような足音に、#name#は弾かれたように目を覚ました。
真上の四階に住む男、満寵である。彼は朝の準備をして歩き回っているだけなのだろうが、なぜかその歩みは巨人が闊歩しているかのように重く、そして喧しい。浅すぎる眠りを無残にも断ち切られ、#name#は半ば殺意に近い感情を抱きながら、這うようにしてベッドから抜け出した。もはや二度寝は不可能である。
そして、午前八時過ぎ。ゾンビのような顔でキッチンに立ち、冷たい水で顔を洗っていると、窓の外から『カンカンカンッ』とリズミカルで軽快な革靴の音が響き始めた。このマンションの構造上、#name#の部屋のキッチンのすぐ横には非常階段が設置されている。上階の住人が階段を使えば、嫌でもその姿が窓越しに見えるのだ。
#name#がマグカップを片手に窓の隙間からそっと外を覗き込むと、ちょうどそこを駆け降りてきた男とバッチリ目が合ってしまった。
「おはよう、#name#殿」
キッチンの窓の隙間から、とびきり爽やかな笑顔を向けてきたのは、真上の騒音源――満寵だった。
今日は謎の木材も電動工具も抱えていない。しかし、その身なりは酷い有様だった。ワイシャツのボタンは今日も食い違っており、スーツの裾にはアイロン掛けなどという概念を知らないような深いシワが刻まれている。自慢の尻尾髪も、毛先があちこちへ自由奔放に跳ねまくっていた。
(......顔だけは良いのに、どうしてこうも『生活感』の欠片もないんだ。整頓の概念が死んでるってレベルじゃないよね)
黙って立っていればハイスペックな優良物件だが、動けばポンコツ。それが#name#の満寵に対する評価だった。不動産営業マンの職業病と彼自身の策士としての性質がハイブリッドに融合した『物件(#name#の心)囲い込み戦略』が絶賛稼働中であることなど、当の#name#は知る由もない。
「......おはようございます、満寵殿。今日は遅刻しないで済みそうですか?」
「いやぁ、どうかな?下のコンビニに寄って行くから、ギリギリかもしれないね」
と言いつつ、彼は焦る素振りなどまったく見せずに、のんびりとした口調で答えた。
「ギリギリになるなら、寄り道してる場合ではないのでは......?」
「ははっ、確かに。けど、寄って行かないと昼抜きになってしまうからね。......それじゃ、行ってきます」
#name#の至極真っ当なツッコミを軽やかに躱し、満寵は優雅に微笑んで再び階段を降りていく。
(本当にマイペースな人。それに、去り際のこの匂い......)
窓から入り込んできたのは、都会のビジネスマンが纏う香水の匂いではない。それは、濃厚で、どこか落ち着く、しかし朝の挨拶にしてはあまりに場違いな『檜の匂い』だった。
(......香水じゃなくて、檜?ああ、また深夜に何か削ってたのか)
#name#は呆れ半分でその後ろ姿を見送ろうとした、次の瞬間だった。
「――朝から煩いですよ。俺は低血圧なんでね、あまり脳を刺激しないで頂きたい」
地の底から這い出てきたような、低くねっとりとした声が響いた。
声の主は、#name#の部屋の真下、二階の角部屋に住む法正である。満寵が踊り場を通り過ぎようとした絶好のタイミングで、法正は窓から身を乗り出し、紫煙を吹かしながら彼をジロリと睨みつけていた。『絶対に損はさせない』を謳い文句にコンプライアンスをガン無視するヤクザ気質の営業マンは、寝起きの機嫌が最悪らしい。その右手には、なぜか鈍く光るステンレス製の棒のようなものが握られており、いつでも物理的な制裁を加えられるぞと言わんばかりにチラつかせている。
朝の爽やかな雰囲気には到底似つかわしくない、一触即発の空気が漂った。しかし、対する満寵の表情には、一ミリの動揺も恐怖も浮かんでいない。
「これは法正殿、おはようございます。低血圧なら、喫煙は控えるべきかと思いますが?」
満寵は歩みを止めることなく、極めて丁寧な口調で、しかし的確に相手の痛いところを突く。その笑顔は完璧に張り付いたままだ。
「......煙草は俺の嗜好品だ。あんたの騒音工具のようにな」
「そうだとしても、身体のことを気遣うなら禁煙されてはどうですか?一流企業の精鋭がそのような体たらくでは、取れる契約も逃してしまうかもしれませんよ」
「......ふん、朝からよく回る口だな」
「自分の口は商売道具のようなものですからね。それと――」
満寵はそこで言葉を区切り、法正が威嚇目的で握り締めている『鈍く光るステンレスの棒』へと視線を落とした。そして、重度の建築DIYオタクとしての知識をフル稼働させ、爽やかなのに見下すようなむず痒い笑みを深める。
「その水道管、私には『メタルラックのポール』にしか見えませんよ」
「......」
「では、お先に!」
満寵は法正の反論を待つことなく、見事に相手の見掛け倒しの武装を看破した優越感に浸りながら、ひらひらと手を振って駐車場へと降りていく。その後ろ姿は、どう見ても上機嫌そのものだった。残された法正が窓枠にギリっとメタルラックのポールを押し付け、不機嫌極まりない舌打ちを鳴らしたのを、#name#はキッチンから死んだ魚の目で見届けていた。
(朝から濃すぎるんだよ、私の周り。もう、どうなってんの......)
すっかり冷え切ったコーヒーを喉に流し込みながら、#name#はそっと窓を閉じた。これが、彼女の狂気に満ちた平穏な日常である。