《第4話》

その日の夜、二十時の少し前。 万年寝不足のマンション住人であり、一階のコンビニで夜勤を務める#name#は、重い足取りで出勤のためのドアを開けた。廊下に出ると、隣室である荀攸の部屋は珍しく静寂に包まれている。どうやら、カラオケ店員の彼はまだ帰宅していないらしい。 (......どうか私が帰ってくる朝まで、一生帰ってこないでくれ) そんなささやかな、しかし切実な願いを胸に秘めながら廊下を進むと、さらにその隣の部屋の前を通りかかった途端、空気が一変した。徐庶の部屋である。なぜかこの部屋の前だけ、局地的に『深い森の中』のような湿気を帯びたマイナスイオンが発生しているのだ。ドアの隙間から微かに苔の匂いすら漂ってくる異常事態だが、#name#はもはやツッコミを入れる気力もなく、ただ無言でそのじめじめとした空間を通り抜けた。 そのままエレベーターに乗り込み、二階のエントランスへと降り立つ。そこで#name#を出迎えたのは、マンションの管理人として二十四時間体制で勤務している男――諸葛亮だった。 「こんばんは、諸葛亮殿。お疲れ様です」 #name#が声をかけると、エントランスの床をモップ掛けしていた諸葛亮が優雅に振り返って微笑んだ。涼やかな目元と知性溢れる佇まいは、まさに『天才』の風格。しかし、その視線を下へ向ければ、彼の足元ではハローキティの健康サンダルがキュッキュッと間抜けな音を立てている。 普段はカウンターの奥に鎮座して胸から下を隠している彼だが、こうして全身を晒すとその手抜き具合はあまりにも凄惨だった。ダサいニワトリ柄のリラックスパンツとハローキティのキメラコーデが、天才のオーラを木端微塵に粉砕している。さらに#name#の視線を釘付けにしたのは、彼の頭部だった。長く美しい髪を一つに纏めている代物が、どう見ても『愛用の羽扇から羽を三十本ほど乱暴に毟り取って作った手製の呪物』にしか見えなかったからだ。 「......」 (見なかったことにしよう。私の精神衛生上、深く関わってはいけない......) 視覚的暴力のオンパレードに脳が理解を拒否した#name#は、引き攣った愛想笑いだけを残し、逃げるようにマンション直結のコンビニへと駆け込んだ。 ――そして、深夜一時。 客足も途絶え、深夜特有の気怠い静寂が店内に漂い始めた頃。自動ドアが開き、軽快な入店音が鳴り響く。レジに立っていた#name#が顔を上げると、そこには『毎晩恒例の光景』が広がっていた。 「......ああ、やっぱり残っていたね。素晴らしい」 金髪を揺らし、死んだ魚のような、いや、もはや本当に半分死にかけているような顔色で店内の奥に直行したのは郭嘉である。彼は顔立ちこそ息を呑むほど美しい貴公子なのだが、その出で立ちは致命的に終わっていた。上から下まで、目がチカチカするようなド派手な『シマウマ柄のセットアップ』に身を包んでいるのだ。病弱な己の将来を憂うあまり、異常な数の保険に加入しすぎた結果、生活費が底を突きかけているという本末転倒な保険貧乏。それが、この男の正体である。 深夜の蛍光灯の下、サバンナから迷い込んだかのような強烈なアニマル柄が目に痛い。しかもその歩みは今にも倒れそうなほど弱々しいのに、半額シールを見据える眼光だけは肉食獣のようにギラついているというカオスっぷりだ。 郭嘉は栄養ドリンクの棚から『リポビタンD』を一本鷲掴みにすると、そのまま値引きシールが貼られた弁当のコーナーへ移動し、残っていた半額弁当を翌日の分まで根こそぎカゴに放り込んだ。そして、フラフラとした覚束ない足取りでレジへとやって来る。 「お会計、お願いできるかな」 「......はい。いらっしゃいませ」 #name#は一切の感情を排した声でバーコードを読み取っていく。ピッ、ピッ、という無機質な電子音だけが二人の間に響く中、郭嘉が不意に、その顔面偏差値だけは無駄に高い顔に幸薄い笑みを浮かべて口を開いた。 「君、可愛いね......。最近入った子かな?」 「......一年半前から勤務しておりますが」 「それは失礼したね。ところで......このシマウマとお揃いの『ウシ柄セットアップ』が家に余っているのだけれど、良かったら着ない?」 深夜一時。リポビタンDと半額弁当を大量に抱えたシマウマ男からの、あまりにも斜め上すぎるナンパである。 「......ウシ......?余ってるって、なに?」 #name#の手がピタリと止まり、心底理解できないというような冷ややかな視線が郭嘉を射抜いた。シマウマの次はウシ。この男の部屋は、本当にサバンナか牧場にでもなっているのだろうか。そもそも、初対面(と本人は思っているらしいが)のコンビニ店員を口説くアイテムとして、なぜよりによって『ウシ柄のセットアップ』をチョイスしたのか。狂人の思考回路は凡人には到底理解できない。 「おや、冷たい反応だね。私はこの店で買い物をする客だよ?」 「客を装った、『入射角のエグいナンパ師』の間違いでは?」 一切の容赦なく切り捨てた#name#の鋭いツッコミに、郭嘉は気を悪くするどころか、嬉しそうに目を細めてふわりと笑った。 「ああ、君のそのドライな返しも堪らないね。そんなふうに冷たくされると、余計に構いたくなってしまうよ」 レジ機の端に頬杖をつきながら熱っぽい視線を送ってくるシマウマ男を前に、#name#は静かに息を吐き出した。 (......顔だけは良いのに、ドMかよ。本当にこのマンション周辺の男たちは、どいつもこいつも......) これ以上相手にするだけ労力の無駄だ。#name#は心の中で深く溜息をつくと、彼からの視線を完全に無視して、淡々と、かつ流れるような手付きでレジ業務を終わらせた。 「お弁当温めますか?『いいえ』ですね。割り箸はご利用ですか?『不要』ですね。はい、ありがとうございましたー」 「あの、私はまだ何も答えてな――」 食い下がるシマウマを無表情のまま店外へと追い払い、#name#は再び深夜の静寂を取り戻した店内で、虚無の表情のままモップを握り直すのだった。