《第5話》
やっと訪れた週末。#name#にとって、休日の昼間は『命を繋ぐための充電期間』である。真上の騒音源である満寵は朝から商談に出掛けており、隣室の厄介なカラオケ店員も仕事で不在。このマンションに引っ越してきて以来、はじめて訪れた完全なる静寂だった。
(今日は.......今日こそは、夜勤の時間まで死人のように眠れる......!)
期待に胸を膨らませ、#name#は遮光カーテンをしっかりと閉めてベッドに潜り込んだ。しかし、彼女はこの魑魅魍魎の巣窟において『静寂』がどれほど脆いものかを、まだ完全に理解していなかったのだ。
うとうとと浅い眠りに落ちかけたその時、開け放たれた窓の隙間から、下の階のベランダで繰り広げられる物騒な怒声が鼓膜を打った。
「おい、若造。この枝をなんとかしろ。俺の領域に入っている」
声の主は、#name#の部屋の真下である二階の角部屋に住む法正である。
『絶対に損はさせない』を信条にコンプライアンスをガン無視するヤクザ気質の営業マンは、似つかわしくない百円ショップの安っぽい箒を手に、ベランダの掃き掃除に勤しんでいた。そして彼の不機嫌な視線の先には、隣のベランダから堂々と突き出している『巨大な木の枝』があった。
「これは失礼。ですが、お隣にはみ出してしまうほど、この枝は長くて使い勝手が良いのです」
悪びれもせず爽やかに答えたのは、法正の隣室に住むハイスペック大学生、陸遜だ。彼は自分のベランダの物干し掛けにその長い枝を斜めに突き刺し、あろうことか通学用リュックを干している最中だった。
「......邪魔だ、退けろ。さもなくば、この水道管で叩き割るぞ」
「何を言っているのです!この枝は私の『戦略的燃料』!いざという時に燃やして活用するのですから、割られては困りますよ」
自慢気に胸を張る陸遜だが、現代社会において『戦略的燃料』という物騒な概念を持ち出している時点で完全にアウトだ。しかし、本人は至って真面目である。
「何が戦略的燃料だ。こんなところで燃やしてみろ、火事になってお前がすべての責任を負うことになるだけだ」
「心配無用。どんな罪も揉み消してくださる凄腕弁護士さんがいますので。荀彧殿にお願いすれば、責任など怖くはありません」
法正が百円ショップの箒を威嚇するように向けるが、陸遜はどこ吹く風で法治国家の根底を揺るがす発言を笑顔で放つ。さらに彼は、予備のロング枝を手に取ると、自分の真上のベランダ――つまり三階のベランダの裏側をツンツンと突き始めた。
「......しかし、私の真上のベランダから降りてくる異常なほどの湿気のせいで、枝が弱っている気がするのです。あの家庭教師はベランダ菜園でもしているのでしょうか、たまに奇妙なキノコが落ちてくることも......」
陸遜が頭上のベランダの端っこに空いた小さな穴を指し示し、三階の住人への不満を漏らし始めたところで、階上からの視線が動いた。階下で繰り広げられるベランダ戦争により、強制的に覚醒させられた#name#である。彼女は恨めしそうにベッドから這い出し、またしてもキッチンで濃いめのブラックコーヒーを啜る羽目になっていた。
(......なんで百円の箒で掃除しながら水道管で脅してんの。弁護士の使い方も狂ってるし、上の階からキノコってなに......手榴弾かよ)
虚無の表情でキッチンの窓から非常階段を眺めていると、上階から軽快な足音が降りてきた。満寵のさらに上の部屋――五階の角部屋に陣を張る男、馬岱である。彼は満寵から「移動の時短になる」と唆され、最近はこの非常階段をルートとして愛用していた。
窓から顔を出した#name#の視界に飛び込んできたのは、グレーのスーツをラフに着こなす馬岱の姿だったが、その両腕の積載状況は完全に異常だった。片腕には、顧客名の書かれた付箋がびっしりと貼られた高級車カタログの山。そしてもう片腕には、まるでウエイターのトレイのように平置きした社用のiPad。そしてその上に、『炒飯おにぎり』と『アイスココア』という絶望的な組み合わせの昼食が鎮座している。
「おはよう〜!今日はお休みかな?」
#name#の姿を見つけると、馬岱は階段を降りながら人懐っこい笑顔で声を掛けてきた。そして、#name#の部屋の横まで来ると、ピタリと足を止める。
「......いや......今日も夜勤だから昼間のうちに寝たいんだけど、下がベランダで騒いでたから寝られなくってさ......」
「そっかぁ、それは辛いよね。下は法正殿でしょ?注意したの?」
げっそりと頬をこける#name#に対し、馬岱は少し首を傾げながら気遣うような声を出した。
「......怖いっていうか。私が注意なんかしたら、水道管持ち出されそうで無理」
「それなら、俺が代わりに言ってあげるよ」
#name#がキッチンの窓枠に突っ伏して絶望を吐露すると、人の懐に入り込むのが天才的に上手いペテン師ディーラーは、にこっと人の良い笑みを浮かべた。そして言うが早いか、馬岱はさらに階段を下へと降りていく。#name#は法正に気付かれないよう、キッチンの窓の影からそっとその様子を見守った。
二階の踊り場に到達した馬岱が、換気のために開け放たれていた法正宅のキッチン窓に向かって、明るい声で叫ぶ。
「おーい、法正殿!ちょっといいかな〜?」
「......何か?」
窓の奥から、最高に不機嫌そうな法正が姿を現す。その手には、千手観音がプリントされた何とも言えないデザインのマグカップが握られており、中身の牛乳を煽っているところだった。
「さっき上から見てたけど、朝から物騒な言い合いしてたじゃない?あれ、意外と上まで聞こえるから気を付けたほうがいいかもよ?」
馬岱の口調はあくまで軽く、まるで「自分がたまたま通りかかって気になっただけ」というスタンスを装っていた。#name#が迷惑がっているという事実は、微塵も匂わせない。
「......それなら隣に言え。枝が邪魔だっただけだ」
「そうだけど、ここを通るついで。......それじゃあ、俺はこれで!」
法正が忌々しげに牛乳を飲み干して不満を漏らすと、馬岱は深追いすることなく、あっさりと背を向けて一番下まで降りていく。一階に辿り着いた彼は、iPadの上の炒飯ココアを器用にカタログの山に積み重ね、自由になった片手で#name#の窓に向かってヒラヒラと手を振った。
(......さっすが対人スキルのバケモノ。波風立てずに交渉を終わらせるなんて、意外と頼りになるかもしれない......食生活は死んでるようだけど)
キッチン窓のすぐ下にまだ法正の影が潜んでいることに気付いた#name#は、直接手を振り返すことは控え、代わりに手元のスマホを素早く操作した。
『ありがとう!』
数十メートル先の彼へ、感謝を込めた短い言葉と謎のキャラクターの陽気なスタンプをLINEで送信し、#name#はようやく訪れた静寂の中で冷めたコーヒーを飲み干した。