《第7話》

翌朝。#name#は虚無を通り越して、悟りを開きかけたような顔でキッチンの壁に凭れかかっていた。 案の定、隣室の荀攸と荀彧による熱烈な討論会は、午前四時頃まで続いていた。しかもその議題は『ダブルソフト・レーズン味から、如何にしてレーズンだけを綺麗に弾き出してトーストするか』という、あまりにも不毛で意味不明なものである。 (......だったら、最初から普通のダブルソフト買えよ......) そんな血の涙が出るようなツッコミを心の中で叫びながら、無理やり数時間の睡眠をもぎ取った#name#だったが、午前七時。無情にも『ゴジラ襲来』を思わせるドスドスという凄まじい足音が頭上から降り注いだ。真上に住む満寵の、朝の身支度である。 「......もう、無理。起きよ......」 完全に睡眠を諦めた#name#がキッチンで顔を洗っていると、いつものように窓の外の非常階段から軽快な革靴の音が降りてきた。窓の隙間から顔を出すと、そこには今日もワイシャツのボタンを見事に一段掛け違えながら、寝癖の跳ねた尻尾髪を揺らす爽やかな満寵の姿が。 「おはようございます、満寵殿。これ、今日の分です」 「おはよう、#name#殿。......いつもありがとう、助かるよ」 #name#が窓越しに差し出したのは、彼女のバイト先である一階のコンビニで廃棄になった『野菜生活』の紙パックである。満寵はそれを極めて自然な動作で受け取ると、とびきりキラキラとした、清涼感溢れる笑顔を向けた。 「お礼と言ってはなんだけど......今度、食事でもどうかな?」 「......へ?」 廃棄の野菜ジュースから、あまりにも流れるようなお誘い。 (......この少しの貸し借りが、やがて彼女の心理的ハードルを下げ、私の用意した完璧な城へと導く布石となる......築城、計略、抜かりなく!) 不動産トップセールスマンの『物件(#name#の心)囲い込み戦略』が着実に進行していることなど露知らず、#name#が思わず目を瞬かせたその時だった。 「やばい、遅刻ギリギリだ〜っ!」 ドタドタドタッ!と、満寵のさらに上の五階から、嵐のように駆け降りてくる足音が響いた。ペテン師ディ―ラーの馬岱である。今日も彼は非常階段をショートカットに利用しているらしいが、#name#の視線は彼が両手に抱えている『絶望の朝食コンボ』に釘付けになった。片手には包装を雑に開けかけた『チョコ大福』、もう片手には『500mlのコーラ』。朝っぱらから血糖値を宇宙までぶち上げる気か。 「やあ、満寵殿!そういえば、もうすぐ納車だよね?前の車は廃車処理も無事に済んだし、あとは待つだけかな?」 馬岱は満寵の後ろを通り過ぎる直前でピタリと足を止め、大福を齧りながら明るく話しかけた。 「これは馬岱殿!良い値で新しい相棒を見つけられたのは君のおかげだ。何から何まで手伝ってもらって、感謝しているよ」 「いやあ、俺はただ仕事をしただけだからね。......って、のんびり喋ってる場合じゃない!それじゃ、遅刻しそうだから俺はこの辺で!」 ニコニコと微笑み合う二人だが、馬岱の言う『仕事』が常人離れした詐欺まがいな話術であることは言うまでもない。慌ただしく階段を降りていく馬岱だったが、一歩踏み出したところでくるりと振り返り、#name#に向かって陽気な笑みを飛ばした。 「あ、#name#ちゃん!あれから法正殿はどうかな?また何かあったら、いつでも言ってよね!」 「あ......うん、ありがとう」 マンションの風紀委員のような一言を残し、馬岱は風のように去っていく。その後を追うように、満寵もまた「私もそろそろ行くよ、またね」と甘い笑顔を置土産にして、駐車場へと消えていった。 (朝から台風みたいな人たち......。でも、食事の誘い......どうやって断ろう......?) ボタンを掛け違えた男からのスマートな誘惑に頭を悩ませながら、#name#の長い一日は始まった。 そして、その日の夜。#name#は再び夜勤のシフトに入るため、二十時少し前に一階のコンビニへと降りてきたのだが、店舗の隣に併設されたマンションの駐輪場に目をやると、信じられない光景が広がっていた。 「......くそっ、なぜだ!なぜ取れぬ!まだ買ったばかりのシルクだぞ......ッ!!」 ネットカフェでの酷評受付業務から帰ってきた男、鍾会が、自らの電動自転車の横でしゃがみ込み、半泣きで悲痛な叫び声を上げていた。世の中の便利に反逆する彼は、なぜか高級なシルクのボトムスを履いたまま自転車を漕ぐという愚行を犯し、結果として裾をチェーンに思い切り巻き込まれてしまったらしい。しかも、意地でも電動アシストを使わないという、現代技術への反抗心を見せた末の惨状。完全に自業自得の自爆である。 #name#が声を掛けるべきか迷っていると、そこへ猛スピードで一台のバイクが、駐輪場の壁を突き破る勢いで突っ込んできた。全身をレザースタイルで固め、ライダースの隙間から蛍光緑の馬面Tシャツを覗かせた男、馬超である。親切丁寧をモットーとするピザ屋のデリバリーを終え、帰還したところであった。 「うむ?鍾会殿ではないか。......ああ、裾が巻き込まれたのか......どれ、俺が正義の心で救ってやろう!」 「や、やめろ馬鹿者!」 状況を瞬時に浅く理解した馬超は、鍾会の制止を振り切り、チェーンに絡まったシルクを素手で掴むと、力任せにメリメリッ!と引っ張り始めた。 「これでは服が破れるではないか......!もう良い、諦めてコレごと持って帰るしかない......。そんなことより、それ。いいのか?貴様の私物ではないだろう?」 「ん?......あああッ!!な、なんてことだ!!」 自転車と一体化した鍾会に呆れ顔で指摘され、馬超は自分の乗ってきたバイクをまじまじと見つめた。そこには、デカデカとピザ屋のロゴがプリントされている。彼は勤務を終えたあと、あろうことか『配達用バイク』でそのまま自宅のマンションまで帰ってきてしまったのだ。 「俺としたことが、不覚ッ!急ぎ乗り換えてこなければ!!」 「......ただの阿呆ではないか」 ただ己の脳筋ぶりを露呈しただけの馬超は、正義の叫びを残して再びバイクに跨がり、夜の街へと猛スピードで引き返していった。 嵐のような男が去ったあと、裾をチェーンに噛まれたままの鍾会は、深く絶望した顔で自転車のフレームをガシッと掴んだ。そして、驚異的な執念で『自転車ごと』持ち上げると、そのままフラフラとエレベーターホールに向かい、最上階である七階の自宅へと消えていった。 彼が管理人室の前を通ったとき、七味を丸ごと一瓶ぶっかけた真紅の牛丼を汗だくで喰らっている諸葛亮から、「駐輪場代金の支払いを逃れたいからと言って、自転車を中へ持ち込むのは規約違反ですよ」と、七味まみれの髭で注意されたことは言うまでもない。 (......このマンション、本当にまともな人間が一人もいない) 奇行種たちのカオスすぎる夜の生態を見せつけられ、#name#は深い深い溜息を吐き出しながら、逃げ込むようにコンビニの自動ドアを潜るのだった。