《第9話》
深夜のコンビニは、もはや一つの狂気的なテーマパークと化していた。
次々に雪崩れ込んでくる奇妙な客の対応に追われ、#name#の精神力はついに限界点へと達していた。シマウマ柄のフードファイター、絶望的な味覚を持つ男たち、そして店外で警察に包囲される放火魔とリモートワークスタイルの弁護士。これを時給制のアルバイト一人に捌かせるのは、あまりにも酷というものである。
完全に焦点の合わなくなった瞳でレジに立つ#name#の肩を、ポンと優しく叩く手があった。
「#name#、随分と厄介な客が立て込んでいたようではないか」
温かく、包容力に満ちた柔らかな声。振り返ると、そこにはこのコンビニのオーナーである男、劉備が立っていた。彼は魑魅魍魎の巣窟であるあのマンションの住人ではない。ここから徒歩十五分ほどの場所にある、築年数の古い駅近のボロアパートから、毎日わざわざ徒歩で通勤してくる真面目な男だ。
しかし、彼のその絶大なる包容力と反比例するように、身に纏っている服のセンスは絶望的だった。上半身には、どう見ても正規のライセンスを通っていないであろう『中国産ミッキーのトレーナー』。そして下半身には、ディスカウントストアのドン・キホーテで六百八十円で投げ売りされていそうな『黒板色のジャージ』。全身から漂う圧倒的な安っぽさと、本人の持つカリスマ性との不一致が凄まじい。そもそも、オーナー自身が制服を着用しないということ自体が、就業規則違反を犯しているのだが。
「オーナー……。すみません、少し処理の重い客が続きまして……」
「ははっ、お前の苦労はよく分かっているつもりだ。無理はしなくていい。ここは私に任せて、裏で少し休んできてくれ」
「でも……」
「気にするな。お前の好きなアレで一息つくといい」
劉備は威圧感の一切ない、優しいタメ口でそう微笑むと、#name#の背中をポンと押して裏のスタッフルームへと促す。全身ドンキ装備のオーナーの背中に後光が見えた気がして、#name#はありがたくバックヤードへと退避した。パイプ椅子に深く腰掛け、大好物のマンゴーラッシーをストローで啜る。甘く冷たい液体が喉を通り抜けていくのを感じながら、彼女は深いため息を吐き出した。
翌朝。夜勤を終えて自室へと帰還した#name#だったが、彼女の安眠はまたしても隣人たちによって強奪されていた。隣室の荀攸と荀彧は、あろうことか『ダブルソフト全種類試食会の総まとめと、それに合う酒についての演説』を夜明けまでぶっ通しで開催していたのだ。壁越しに聞こえてくる「やはりレーズン味にはこの辛口の日本酒が……」といった意味不明な討論のせいで、#name#の脳は完全に覚醒してしまっている。そして眠ることを諦めた#name#は、ゾンビのようにふらふらとキッチンへ向かい、ブラックコーヒーを淹れた。
(……そろそろ、上の騒音野郎が降りてくる時間か……)
#name#は無意識のうちにキッチンの窓枠に身を乗り出し、外の非常階段をじっと見つめていた。
時計の針は午前八時を少し回ったところ。以前の彼女なら、上階の足音にただ殺意を抱き、顔を合わせるのも億劫だったはずだ。それなのに、今の彼女はコーヒーカップを片手に、わざわざ窓から顔を出して『彼』が降りてくるのを待っている。ただの騒音被害者であったはずの自分が、いつの間にか彼の姿を探しているという事実に、#name#自身もまだはっきりとは気づいていなかった。
ドタドタドタッ!
やがて、期待通りに上階から慌ただしい革靴の音が駆け降りてきた。不動産トップセールスマンにして重度のDIYオタク、満寵である。
「やあ、#name#殿。おはよう。今日は野菜生活は無いみたいだね」
窓越しに#name#の姿を見つけた満寵は、いつものように足を止め、とびきり爽やかな笑顔を向けてきた。しかし、彼を一瞥した瞬間、#name#はえも言われぬ違和感に襲われる。
「……あ、今日は廃棄が出なくて……って、あれ? きちんとボタン閉まってる!」
思わず素っ頓狂な声が出た。
そう、いつもなら見事に一段ずつ掛け違えられているはずのワイシャツのボタンが、今日に限って一番上から下まで、一寸の狂いもなく完璧に留められていたのだ。そして、さらには檜の匂いまでもが消えている。代わりに香ってくるのは、ホワイトムスクのような清潔な匂い。いつもの『不備』が、すっぽりと抜け落ちていた。
「ああ、これかい?」
満寵は自分の胸元へと視線を落とし、少しだけ困ったような、それでいてどこか照れくさそうな笑みを浮かべた。
「いやあ、身嗜みを整えろって煩くてね。私はいつも通りに出掛けようと思ったんだが、先ほど直されてしまって」
――直されてしまって。
その一言が、#name#の胸の奥に小さな、しかし冷たい小石のようなものを投げ込んだ。そこにあるべきはずの『掛け違い』という名の愛嬌は、今の彼からは消え去っている。代わりに整然と並ぶプラスチックの円盤が、#name#の網膜を無機質に突き刺した。
(……直された? 誰に? こんな朝早くから、部屋に誰かいたの……?)
頭の片隅で、見知らぬ『誰かの影』がチラついた。それが同僚なのか、それとももっと親しい別の誰かなのかは分からない。しかし、得体の知れないモヤモヤとした感情が、#name#の胸を不快に締め付けていた。
「じゃあ、またね」
#name#の複雑な内心など知る由もない満寵は、優雅に微笑んで手を振ると、再び階段を降りていく。その後ろ姿を見送りながら、#name#はようやく自分の抱いた感情の正体に気がつき始めていた。完璧にボタンが整った、隙のないトップセールスマンの姿。それは世間一般から見れば間違いなく『魅力的』なはずである。しかし、#name#にとっては違った。
(……私、ちゃんとしてるあの人より、ちょっと締まりがなくて、ポンコツなところがあるあの人の方が……)
いつもならシワだらけのスーツを着て、木の匂いをさせながら野菜生活を咥えて駆け降りてくる。そんな生活感が漏れ出している状態の方が、#name#にとっては遥かに親しみやすく、心を開ける存在になりつつあったのだ。彼女が見ていたのは、満寵が外に向けている『表面上の爽やかさ』ではなく、DIYに夢中になりすぎて身嗜みにまで気が回らないという、彼の『素顔』の部分だった。だからこそ、その素顔を誰かによって完璧に覆い隠されてしまったことが、たまらなく寂しかったのである。
#name#がそんな感傷に浸っていた、次の瞬間。
「――相変わらず締まりのない顔だ。ヘラヘラするな騒音野郎」
二階の踊り場で、窓から顔を出した法正のねっとりとした怒声が響き渡った。またしても寝起きの機嫌が最悪らしい法正は、階段を降りてきた満寵を憎々しげに睨みつけている。感動的な自己認識の時間をぶち壊す、いつもの日常風景。それに対し、満寵は歩みを止めることなく、完璧に整ったスーツ姿のまま涼しい顔で振り返った。
「おお、朝からお元気ですね法正殿。あなたのその般若のような顔、目の保養にもなりませんね」
ニコッと、極上の笑顔で毒を吐いた満寵は、「では、お先に!」と法正の舌打ちを背中で浴びながら鼻歌交じりに颯爽と駐車場へ向かい、自分の車に乗り込んで出勤していった。
(……なんだ。ボタンは整っても、中身はいつも通りじゃん)
口の減らない満寵のやり取りを上から眺めていた#name#は、先ほどまでの胸のモヤモヤが少しだけ晴れるのを感じていた。
冷めたブラックコーヒーを飲み干し、彼女はふっと小さく笑う。魑魅魍魎の巣窟での日々は、確実にある一つの恋の歯車を狂わせながら、今日も静かに回っていくのだった。