《第10話》

ボタン事件から一夜明けた、次の日の朝。#name#は今日も今日とて、無意識のうちにキッチンの窓辺に立ち、外の非常階段を眺めていた。手には、彼女の勤務先であるコンビニで廃棄になった紙パック飲料が握られている。しかし、今日彼女が用意したそれは、いつものスタンダードな味ではなかった。 (......今日は、これにしよ) #name#が選んだのは、『野菜生活・マンゴーサラダ』である。彼女の好物がマンゴーラッシーだということを知る者は少ない。自分自身の好きなもの、あるいはそれに極めて近い味のものを、あえて彼に渡す。それは心理学的に言えば、無意識下における『相手を自分の色に染めたい』という独占欲や、テリトリー意識の現れである。 冷蔵庫を開け、色鮮やかなオレンジ色のパッケージを手に取った瞬間、彼女は自嘲気味に息を吐いた。「何やってんだろ、私」と呟きながらも、指先はしっかりとそれを掴んで離さない。彼を完璧な姿に変えた見知らぬ『誰か』への対抗心が、こんな小さなパック飲料一つにまで滲み出ている自分が少し恥ずかしくて、ひどく滑稽に思えたのだ。それでも、彼に会いたいという矛盾した感情が、睡眠不足の頭をぐるぐると駆け巡っていた。 前日、完璧に整えられたワイシャツのボタンを見て感じた『見知らぬ誰かの影』。その得体の知れない存在に対する焦りと牽制が、#name#の行動にほんの少しの乙女心を混じらせていたのだ。 カンカンカンッ! やがて、リズミカルな革靴の音が上階から降りてきた。 「おはよう。今日は野菜生活あるよ」 #name#は窓の隙間から顔を出し、努めて平坦な声を装いながらマンゴーサラダのパックを差し出した。 「いつも悪いね、助かるよ」 満寵はアイドルのような笑顔でそれを受け取ると、まるで世間話でもするような軽やかなトーンで、特大の爆弾を投下した。 「ああ、それと。この間、食事に誘ったけど、いつがいいかな?#name#殿の都合に合わせるよ」 朝の光を背に受け、太陽のような眩しさを放ちながら微笑む満寵。思いがけないタイミングでの具体的な日程調整に、#name#の心臓がドクンと大きく跳ねた。 「え......っと。じゃあ......今週末の、土曜の夜とか?」 「承知した。では、また後ほど」 完全に虚を突かれた#name#は、視線を泳がせまくりながら、どうにかそれらしい日程を絞り出した。彼女の返事を聞いて満足げに頷いた満寵は、再び極上の笑顔を向けてから階段を降りていく。 (......約束、しちゃった) 心臓の鼓動がうるさい。しかし、彼が数歩下った踊り場に差し掛かった時、#name#の甘い動揺は一瞬にして別の感情へと塗り替えられた。 「......身なりが整っていると、お前のような男でも少しはマシに見えるものだな」 二階の窓から顔を出していた法正が、忌々しげに、しかしどこか感心したような声で満寵に突っかかったのだ。それだけではない。コンプライアンスをガン無視するあの水道管ヤクザがあろうことか手を伸ばし、満寵のスーツの肩口に付着していた『木屑』を、手の甲でパパッと払ってやったのである。そんな法正の予想外の行動に、満寵は一切動じることなく、法正の胸元へと視線を落とした。 「そういう法正殿も。今日は随分と気合が入っているようですが、一流企業と契約締結の予定でも?」 満寵の視線の先には、法正が普段は絶対に締めないような、いかにも高級そうな光沢を放つシルクのネクタイがあった。互いに業種は違えど、どんな手を使ってでも必ず契約をもぎ取ってくるトップセールスマン同士。そこには、普段の啀み合いの裏に隠された『同業者としての奇妙な連帯感』、あるいは悪友のような空気が漂っていた。 「まあ、そんなところだ」 法正は手元の水道管を掲げながらわずかに口角を上げ、凶悪な笑みを浮かべる。そして、顎をしゃくって「早く行け」と満寵を促した。満寵は「では」と短く返し、バタバタと下へ降りていく。二人のやり取りを上から見下ろしていた#name#の視線は、遠ざかる満寵の背中に釘付けになっていた。 (......今日も、狂いがない) 昨日の『ボタン事件』は、単なる偶然ではなかったらしい。 満寵のワイシャツのボタンは、今日も一番上から下まで完璧に留められていた。それどころか、いつもなら無造作に跳ね回っているはずの尻尾髪までが、今日は毛先の流れに至るまで綺麗に整えられている。着倒されてシワだらけだったはずのスーツも、まるでプロの手でアイロンが当てられたかのようにピシッとしていた。 完璧すぎる背中は、まるで誰かが見えない手で彼に『マーキング』をしているように見えてならなかった。これまで彼自身から漂っていた不器用で生々しい檜の匂いすら、今日も洗練された清潔な香りに上書きされている。それがたまらなく嫌だった。ポンコツで隙だらけの彼を、非常階段という特等席から一人で眺めていた優越感が、無残にも打ち砕かれていくのを感じる。 (......法正殿が払った木屑。あれは間違いなく、彼が昨日の深夜に木を削った証拠。だとしたら、一体いつ、どこで、その身だしなみを整えたの?) 朝、家を出る前か?それとも、誰かが部屋を訪ねてきたのか?#name#の胸の奥で、黒くモヤモヤとした感情が急速に膨れ上がっていく。満寵のあのポンコツな身だしなみを、ここまで完璧に作り変えることができる『誰か』。それは几帳面な同僚なのか、それとも、彼のプライベートに深く入り込むことのできる特別な存在なのか。 (......っ、ああもう!イライラする......!) 正体の見えない『誰か』への嫉妬と疑心暗鬼に耐えきれなくなった#name#は、乱暴にキッチンの窓を閉めた。一人で部屋にいても、悪い想像が膨らむばかり。#name#は逃げるように自室を飛び出すと、同じ三階の廊下を歩き出した。深夜の討論会で荒れ果てた荀攸の部屋の前を素通りし、さらに隣へと向かう。その部屋の前だけは、なぜかコンクリートの無機質な廊下であるにも関わらず、ひんやりとした湿気と、深い森のようなマイナスイオンが漂っているのだ。 #name#は救いを求めるように、その苔むした雰囲気の玄関チャイムをそっと鳴らした。