《第11話》
見えない『誰かの影』に対するモヤモヤと嫉妬を抱えきれなくなった#name#は、同じ階に住む徐庶の部屋へと避難していた。徐庶が家庭教師の仕事に出かける時間まで、#name#は彼の手厚い歓迎を受け、この部屋でダラダラと居座ることに決めたのだ。
それにしても、この部屋はあまりにも『森』だった。壁紙、家具、ファブリックの素材、そして鼻腔を擽る苔むしたような匂い。文字通り、何もかもが深緑一色に染まり、さながら本物の森の中にいるような錯覚を覚える。テーブルの上に並べられたお茶請けの料理すらも、すべて緑色の野菜だけで構成されていた。ふと窓の外を見やれば、隣の荀攸のベランダまで、徐庶の育てた湿地帯(キノコ爆撃本部)が不法に占拠し、領土を拡大している。客観的に見れば異常な空間なのだが、なぜかこの鬱蒼とした森のような部屋は、今の#name#の荒んだ心をひどく落ち着かせてくれた。
#name#は苔のようなデザインのフカフカの絨毯の上で両足を伸ばし、徐庶と隣同士に座って『えのき茸の世界』というマニアックすぎる図鑑を一緒に眺めていた。しかし、活字を追いながらも、彼女の頭の片隅には、さきほどの満寵の姿がこびりついて離れない。
(......なんで私、あの完璧な姿を見て、あんなに焦ったんだろう)
徐庶の隣でぼんやりと考えるうちに、#name#はその心理的な圧迫感の正体に気が付き始めていた。
これまでの満寵は、『ボタンの掛け違い』という愛嬌のある隙を見せる、言うなれば『親しみやすい中古物件』だったのだ。手が届きやすく、自分が観察していても安心できる存在。しかし今朝の彼は突然、アイロン完璧、ヘアセット完了、さらには顔も職業も年収もすべて良しのハイスペックという、『フルリノベーション済みの超人気優良物件』へと変貌を遂げていた。完璧な自分を見せつけることで、「早くしないと、他の人に取られちゃうよ」という焦りを煽る。それはまるで、不動産屋が人気物件を前にして「迷っているなら先に決めたほうが良い」「この条件の良い男は早い者勝ちですよ」と客に圧を掛ける手口そのものだった。満寵自身に自覚があるのかは分からないが、彼の持つ不動産屋気質が、無意識に「今決めるべきです」という心理的アタックを#name#に仕掛けていたのである。
(......まんまと、その計略に乗せられてる気がする)
#name#が小さく溜息を吐いた、まさにその時だった。
ピンポーン!
静寂に包まれた森のチャイムが、無機質に鳴り響いた。
「あれ、誰だろう。こんな時間に......」
徐庶が不思議そうに立ち上がり、玄関のドアを少しだけ開ける。すると、そこには湿気たっぷりの森にはおよそ似つかわしくない、パリッとした高級スーツに身を包んだ鋭い目つきの男――法正が、出勤前の姿で立っていた。その手には、場違いなほど立派な化粧箱が抱えられている。
「......#name#殿がここにいるだろう?出せ」
「ああ。いるけど、どうして分かるんだい?」
徐庶が目を丸くして尋ねると、法正は極めて真顔で、しかし凶悪な口調で答えた。
「ここのマイナスイオン濃度が少し薄くなったからだ。さあ、#name#殿を呼んで来い」
「......」
どんなセンサーを搭載していれば、他人の部屋のマイナスイオン濃度の変化を察知できるのか。玄関から聞こえてくる自分の名前と理不尽な要求に、#name#は重い腰を上げて顔を出した。
「もう、何〜?......って、なんだ法正殿か。私になんか用?」
満寵のフルリノベ効果によるモヤモヤを引きずっていた#name#は、つい素っ気ない、棘のある態度を取ってしまった。しかし法正はそんな彼女の機嫌など気にも留めず、無言で抱えていた化粧箱をヌッと差し出した。
「#name#殿にこれを。引っ越しの挨拶ってことで」
「......え?挨拶って、いまさら?」
「では、俺はこれから仕事なので失礼」
言うが早いか、法正は#name#の腕に化粧箱を押し付け、バタリと勝手にドアを閉めて去って行ってしまった。嵐のような訪問と謎の贈答品。
「な、何これ......」
#name#が唖然としながら化粧箱の蓋を開けると、そこには甘く芳醇な香りを放つ、見事な果実が鎮座していた。
「ねえ見て徐庶殿!これ、宮崎県産のマンゴー!めっちゃ高級品!!!」
#name#の素っ気なさは一瞬で吹き飛んだ。彼女の大好物であるマンゴー、しかもスーパーでは絶対にお目にかかれない特級品である。朝、満寵に『マンゴーサラダの野菜生活』を渡したことなどすっかり忘れ、#name#は大事そうにマンゴーを撫でた。
「一緒に食べる?ていうか、あの人お金持ちなのかな......」
「彼か......。営業成績トップの精鋭だっていう噂は、孔明から聞いたことあるけど......。こんな高価なもの、俺なんかにはとても買えないよ......」
大はしゃぎする#name#の隣で、徐庶は自分の薄給を嘆くように、シュンと肩を落として深い溜息を吐いた。
その後、徐庶の出発時間まで、二人はテレビで『樹海探索ドキュメンタリー』を鑑賞しながら、朝からジメジメとした森の中で仲良く高級マンゴーを食した。緑一色に侵食された空間の中で、甘く熟したマンゴーのオレンジ色だけが、ひどく鮮やかに発色していた。
そして、その日の夕方。#name#は夜勤に出発する少し前、部屋のベッドの上でスマートフォンを握り締めていた。満寵に対する言い知れぬモヤモヤと焦燥感が、再び胸の奥で渦巻いている。
(......誰かに、このモヤモヤを聞いてほしい)
#name#はLINEの画面を開き、メッセージを入力した。
『話を聞いてほしいんだけど、時間ある?』
送信ボタンを押す。しかし、その直後、#name#の指先がピタリと止まった。相手は、誰の懐にでもスルリと入り込み、どんな厄介事でも波風立てずに解決してしまう、対人スキル限界突破のペテン師ディ―ラー。彼なら間違いなく、このモヤモヤの正体も、満寵を取り巻く見えない影の正体も、あっさりと暴き出してしまうだろう。それが、なんだか無性に怖くなったのだ。
『ごめん、やっぱり何でもない』
最初のメッセージに既読がつく前に、#name#は慌てて追加のメッセージを送信し、逃げるようにスマートフォンの電源を落とした。