《第12話》

徐庶の部屋で高級マンゴーを堪能し、なんとか生命力を回復させた#name#は、今日も溜息混じりに夜勤のシフトへと入っていた。 週末までは、あと2日。土曜の夜には、あの満寵とのディナ―の約束が控えている。しかし、#name#の心は一向に晴れなかった。彼と二人で食事ができることは、確かに楽しみのはずだ。だが、その反面で、完璧に整えられた彼の身だしなみと、その後ろにチラつく『見えない誰かの影』が、どろりとした不安となって胸の奥に渦巻いている。楽しみのような、そうでもないような......そんなモヤモヤとした感情に押し潰されそうになりながら、#name#は深夜のコンビニで黙々と作業をこなしていた。 「ふふっ......」 静かな店内に、不気味な笑い声が響く。声の主は、雑誌コーナーで堂々とエロ本を立ち読みしている巨漢の男、関羽だった。立派な美髯を撫でながら、ポイ活の鬼は雑誌のグラビアページを見つめて口角を上げている。そんな彼のすぐ隣で、#name#は無表情のまま、古くなった雑誌を棚から抜き取り、新作の雑誌と入れ替える作業を続けていた。視界の端に映る関羽の姿すら、今の彼女にとってはもはや日常のBGMの一部でしかない。 一通り新作の雑誌を並べ終えた#name#は、凝り固まった肩を回しながら、なんとなく目線を上げ、全面ガラス張りの窓の向こう側の景色をぼんやりと眺めた。すると、視界の先に、思わず二度見してしまうほどカオスな二人組の姿が飛び込んできた。 一人は、二階に住む法正だ。いつもは憎まれ口を叩くヤクザ営業マンだが、今はまるで底なし沼から生還した戦士のように、どんよりと沈み切ったお疲れ顔で足を庇うように歩いている。そしてその横を歩くのは、六階の管理人、諸葛亮だった。天下の天才軍師の面影など微塵もなく、彼の足元は『ニワトリ柄の激ダサズボン』に『ハローキティの健康サンダル』という狂気の組み合わせである。さらに、夜間にも関わらず真っ黒なサングラスをかけ、手にはドン・キホーテの黄色いレジ袋を提げて、堂々とコンビニの入り口に向かって歩いてくる。 (......相変わらず、視覚の暴力がひどい) #name#が呆れ半分で彼らを眺めていた、その時。 ――問題の光景は、彼らではなかった。 法正と諸葛亮の後方。コンビニとは別の方角、駅の方面へ歩いていく『二つの後ろ姿』に、#name#の視線は強烈に吸い寄せられた。 街頭の光に照らされた、モデルのようなスラッとした長身。頭頂部でぴょこぴょこと小動物の尾のように揺れる、特徴的な束ね髪。そして、プロの手でピシッとアイロンが当てられた、完璧なスーツの背中。見間違えるはずがない。それは、数時間前まで#name#の頭を悩ませていた張本人、満寵の後ろ姿だった。そして、その隣には――。夜の闇に溶け込んでしまいそうなほど、美しく長い黒髪を優雅に靡かせて歩く『誰か』の姿があった。満寵とその人物は、同じ歩幅で、親しげに並んで歩いている。何事か言葉を交わしているのか、満寵が時折、顔を横に向けて優しく微笑んでいるのが、遠目からでも分かった。満寵本人は恐らく、この瞬間、自分がコンビニの窓越しに見られているなどとは夢にも思っていないだろう。#name#がこの光景を見て傷付くなんてことも、一ミリも想像していないはずだ。彼にとっては、ただ駅へと向かう道すがらの日常の一コマに過ぎない。だからこそ、それは一切の説明を持たない、あまりにも残酷で一方的な目撃だった。 心臓を氷の塊で直接鷲掴みにされたような、鋭く冷たい痛みが走った。完璧にアイロン掛けされたあのスーツも、毛先まで計算されたヘアスタイルも、そして爽やかな笑顔の裏に漂っていたあの清潔な香りも。その全ては、自分ではなく、隣を歩くあの『美しい誰か』のためだけに用意されたものだったのだと、嫌でも理解させられてしまう。自分が一人で非常階段からこっそりと眺めていた、少しポンコツで隙だらけだった彼は、もうどこにもいない。あの艷やかな黒髪の人物だけが、満寵という完璧な城の内側に招き入れられた、真の特別な存在なのだ。たかが数日、少し言葉を交わして食事の約束をしたくらいで、もしかしたら自分も彼にとっての『特別』になれるかもしれないと浮かれていた。その浅はかな自惚れが、今になってどうしようもなく恥ずかしく、そして堪らなく悲しかった。 バサササッ!! #name#の手から力が抜け、回収しようとしていた古い雑誌の束が、床に向かって無残に雪崩落ちた。鈍い音が店内に響き渡る。 「むっ?#name#殿、如何した?ポイント還元率に臆して手が滑ったか?」 雑誌の落ちる音に驚いた関羽が、エロ本から顔を上げて的外れな心配の声をかけてきた。しかし、その声は#name#の鼓膜を震わせるだけで、脳には一文字も届いていなかった。 #name#はただ、その場に立ち尽くしていた。窓の向こう側から、法正と諸葛亮が自動ドアに向かって歩いてくる。店内で関羽が何かを喋っている。周りの世界はいつもと何一つ変わらず進んでいるというのに、#name#の心だけが、まるで突然電源を引き抜かれたかのように、完全に停止していた。 遠ざかっていく満寵と『美しい黒髪』の後ろ姿が、夜の闇に吸い込まれて消えるまで、彼女は瞬きすら忘れて、ただそれを見つめていることしかできなかった。 数時間後。午前二時を回った頃、ようやく休憩に入った#name#は、バックヤードのパイプ椅子に崩れるように座り込んだ。そして虚ろな瞳でスマホの画面を開く。そこには、自分がメッセージの送信を直前でキャンセルした相手――馬岱から、数時間前に届いていたLINEの通知が光っていた。 『どうかしたの?』 いつでも人の心にスルリと入り込んでくる、ペテン師ディ―ラーからの短くも優しい問いかけ。以前の彼女なら、誤魔化すか、冗談めかして返信していただろう。しかし、今の彼女には、もう虚勢を張る余裕すら残されていなかった。 #name#は震える指先で画面をタップし、ただ一言だけを打ち込んだ。 『苦しい』 送信ボタンを押す。これ以上何も語れない。それが、今の彼女にできる精一杯の救難信号だった。