《第13話》

二人の影が、夜の闇に完全に溶け込んで見えなくなる間際だった。満寵が、隣を歩く長い黒髪の『誰か』の肩を、ごく自然な動作で優しく抱き寄せたのだ。それは決して、男友達同士で気安く肩を組むような粗雑なものではない。壊れ物を扱うように、そして大切に慈しむように異性を抱く手付きそのものであった。 その一瞬の映像が、#name#の頭の中を何度も、何度もぐるぐると回り続けていた。 (......あれは一体、誰なんだろう) 完璧に整えられた身だしなみも、あの優しい手付きも、全てはその『誰か』のためだったのか。単なる人間観察から始まったはずの淡い恋は、こうしてひどく苦い後味だけを残したまま、あっけなく終わってしまうのだろうか。 気が付けば、#name#は夜勤を終え、マンションの自室を通り越して二階の廊下へと足を踏み入れていた。時刻は、早朝の四時半。どう考えても他人の家を訪ねる時間ではない、非常識極まりない時間帯である。しかし、#name#は手土産代わりの『廃棄の特大プリン』と『野菜生活』を強く握り締め、二階の角部屋――法正の家の玄関を力強く叩いた。 ドンドンドンッ! ......しかし、いくら待っても中からは何の反応もない。低血圧で朝に滅法弱い男が、この時間にすんなり起きるはずがなかった。となれば、強行突破である。#name#はスマホを取り出し、法正の番号へ容赦のない鬼電を掛け始めた。数回目のコールの後、分厚い鉄扉の向こう側から、呪詛のような低い『お経の着信音』が微かに響き始める。そして、ドスッ、バタッ......という、何かに躓きながら不機嫌に歩いてくる重い足音が近づいてきて、ついにガチャリと玄関の鍵が開いた。 「......何だ、こんな時間に。迷惑にも程がある」 ドアの隙間から顔を出したのは、ひどく眠たそうに眉間へ深いシワを刻んだ法正だった。ヤクザ気質の敏腕営業マンの彼は、現在、どういうわけか『焚き火の総柄プリント』という絶望的にダサいセットアップのスウェットに身を包んでいる。威圧的な顔つきと部屋着のポップさのギャップに、激しい目眩を起こしそうだった。 「実は、話したいことが......」 「俺を悩みの相談窓口にするつもりか......。まあ、いい。話くらいは聞いてやる、入れ」 #name#が深刻そうに訴えかけると、法正は大きな舌打ちを一つ落としたものの、渋々といった様子でドアを開け、彼女を室内に招き入れた。 法正の自宅は、意外なほどスッキリと片付いていた。無駄なものが一切なく、角ばった家具が合理的に配置されている。少しだけ夜職のような香水の匂いが漂う大人の空間だが、不思議と生活はしやすそうで、居心地の良さを感じさせた。#name#は迷うことなく一直線にキッチンへと向かうと、換気扇の下のコンロ台に置かれていた彼の煙草の箱から、勝手に一本抜き取り、オイル切れ寸前のライターで火を点ける。 「一本もらうね」 「......後で一箱にして返してもらうぞ」 既に煙を深く吸い込んでいる#name#の隣に並び、法正もまた自分の煙草に火を点けた。朝方四時半、換気扇の下で煙を燻らせる二人。 「ていうか、何?そのダサい服。そんな変なもん、どこで売ってんの?」 #name#は遠慮のない視線を、法正が着ている焚き火柄のスウェットへと向けた。 「これは俺の趣味ではない。隣の若造が、『ベランダの枝のはみ出し問題の詫び』だと言って、先日持ってきただけだ」 「好みじゃないなら着なきゃ良いじゃん。もっとマシな服あるでしょ。なんか、あの貧乏ナンパ師みたい」 #name#が煙草の煙と共に、郭嘉を引き合いに出して毒を吐き出す。しかし、法正は静かに首を振った。 「あんなシマウマ野郎と一緒にするな。......隣の若造は学生。金に余裕があるわけじゃないだろう。だが、そんな中で買ってきた誠意だ、無駄にするのも悪い。......まあ、お世辞にもセンスが良いとは言えんがな」 法正は早くも一本目の煙草を吸い終えると、それを灰皿に押し付けて火を消した。 (......えっ) #name#は思わず目を見張った。この口の悪い水道管ヤクザは、陸遜が少ない手持ちから捻出してくれた絶望的にダサい詫びの品を、相手の誠意を汲み取って律儀に着てやっているのだ。彼の底に隠された、ひどく大人で情に厚い一面を目の当たりにして、#name#の胸が小さく鳴った。コンプライアンスを無視して暴れ回る普段の姿からは想像もつかない、あまりにも真っ当で義理堅いその横顔。それを間近で見つめているうち、#name#の胸の奥でカチカチに凍りついていた不安の塊が、静かに溶け出していくのを感じた。 数時間前、馬岱からの優しいメッセージに『苦しい』とだけ返信した後、#name#は激しい自己嫌悪に陥っていたのだ。人の心に寄り添うのが上手い彼なら、きっとどんなに惨めな思いを吐露しても、全肯定して甘い言葉で慰めてくれるだろう。だが、今の自分が本当に欲しているのは、傷を舐め合うような優しいだけの同情ではない。時に冷酷なまでの現実を突き付け、それでも最後には『絶対に損はさせない』という彼自身の信念で、力強く前を向かせてくれる。そんな不器用で、けれど確かな芯のある強さを持ったこの男の隣だからこそ、情けなくて泥臭い自分の本音を晒け出せるような気がした。 #name#は今、自分がなぜ馬岱ではなく、この法正の部屋を訪れたのか、はっきりと理解していた。今の彼女に必要なのは、馬岱のような『優しさ100%の慰め』や、心地の良い甘やかしではないのだ。傷口を優しく撫でられるだけでは、この現実に立ち向かえない。しっかりと話を聞いて受け止めてくれる相手。だからこそ、彼女は本能的にこの男を相談相手に選んだのだ。 「あ、このプリンあげるよ。この間のマンゴーと、相談役のお礼ね」 #name#は手元に持っていた廃棄の特大プリンを、法正へと差し出した。高級マンゴーの返礼が廃棄のプリンというのもおかしな話だが、法正は文句も言わずにそれを受け取る。このあと、彼女は煙草の紫煙が充満する仄暗いキッチンで、満寵の身に起きている変化と、昨夜見てしまった『長い黒髪の誰か』の存在について、すべてをこの男に打ち明けることになるのであった。