《第14話》

法正の部屋の仄暗いキッチンには、換気扇の下で吐き出された煙草の紫煙が、濃い霧のように漂っていた。 気が付けば、時刻は既に午前八時を回っている。二階の廊下を、エントランスに向かって歩いていく管理人・諸葛亮のニワトリ柄ズボンの擦れる音と謎の奇声が響いてきて、#name#はようやく朝の訪れを感じていた。 夜明け前からずっと、無限に出てくる煙草を次から次へとチェーンスモークしていた法正が、ここに来てやっと、#name#が持参した『廃棄の特大プリン』へと手を伸ばす。そして、プラスチックのスプーンで一口だけそれを掬い、口に運んだ。 「......甘いな。お前も、このプリンも」 一通り#name#の愚痴とモヤモヤを聞き終えた法正は、残りのプリンを無造作に#name#の目の前へと突き返した。 ただ優しく慰めてくれる言葉を期待していたわけではない。しかし、その短い一言には、確かな『喝』が込められていた。「お前はまだ、現状を全く客観視できていない」、「見えているものだけで勝手に判断し、勝手に傷付いているだけだ」。法正は、#name#の視野の狭さと、恋愛における『甘さ』を、この安っぽい特大プリンの味に例えて容赦なく指摘したのである。 「......分かってるよ、そんなの。まだ付き合ってもない、ただのご近所さんなのに......」 #name#は今にも泣きそうな顔を作りながら、突き返されたプリンを渋々受け取った。頭では理解しているのだ。自分には満寵を責める権利など何一つ無いということを。だからこそ、苦しい。 「で?それは?」 法正が顎で指し示した先には、テーブルの上に置かれたままになっている『野菜生活・マンゴーサラダ』があった。 「ああ、これは......。満寵殿にあげようと思って持って帰ってきたんだけど、顔合わせづらいから、法正殿から渡して。今日もそこの非常階段通るだろうし、もうすぐ降りてくるんじゃないかな」 「この俺が『仲介』役か。そんなものは不動産屋の得意分野だろうが」 面倒くさそうに悪態をつきながらも、法正は野菜生活を片手に立ち上がり、冷蔵庫から自分のための『養命酒』を取り出して慣れた手付きで何故かワイングラスに注いだ。その時である。 ガンガンガンガンッ! 上階から、いつものリズミカルで軽快な革靴の音が、非常階段を駆け降りてくるのが聞こえた。 「あ、ほら。来たよ!私ここに隠れるから、よろしく!」 「......」 #name#はパニックになり、キッチンの窓の下――法正の足元の死角へと、丸まるようにして身を隠した。法正は心の中で盛大な舌打ちをしながらも、#name#を蹴り出すようなことはせず、窓枠に肘をついてその男を待ち構える。 「おや、法正殿。おはようございます。今日も朝から毒を吐いて、そんなにストレスが溜まっていると?......ああ、それより」 窓越しに現れた満寵は、いつものように完璧に張り付いた笑顔で皮肉を返してきたが、すぐに周囲を見回し、少しだけ困ったような表情を浮かべた。 「今朝は#name#殿の姿が見えないようだけど、何かあったのかな?」 「その#name#殿から、預かり物ですよ」 法正は、足元で震えている#name#の頭上越しに、野菜生活マンゴーサラダを無愛想に差し出した。「なぜ法正殿がこれを?」と、満寵は不思議そうにそれを受取り、紙パックにストローを押し刺すと早々に飲み始める。 「さあ?ただ、『顔を見たくない』と、彼女は言っていましたよ」 特有の、地の底から響くようなねっとりとした声で、法正は平然と嘘を吐いた。その足元に縮こまりながら、#name#は「顔を見たくないなんて言ってないよ!」と極小のウィスパーボイスで抗議するが、もちろん満寵には聞こえない。法正なりの意地悪なのか、それとも満寵の反応を試すための揺さぶりなのか。その残酷な言葉を聞いた瞬間、満寵の完璧な笑顔が、ピシリと崩れた。 「そうか......」 ひどく悲しそうな、傷付いた顔。それは、普段の飄々とした彼からは想像もつかないほど、無防備な表情だった。 いつもなら、法正からどんな強烈な嫌味をぶつけられようと、涼しい顔で全てを躱して笑顔で言い返す男だ。それなのに、今の彼は、法正が放った「彼女が顔を見たくないと言っていた」というたった一言の嘘で、足元が崩れ落ちたかのように立ち尽くしている。窓の下で丸くなっていた#name#は、その押し殺したような低い声の響きに、思わず心臓を鷲掴みにされた。彼がこれほどまでに分かりやすく動揺しているのは、#name#への執着がそれだけ強いという証左に他ならない。法正はあえて残酷な嘘を吐くことで、満寵の『本音』を#name#に聞かせようとしたのだ。「お前が思っているほど、この男はお前に無関心じゃないぞ」と、現実の重さを教えるために。 「わかった。......今夜、仕事の後に彼女を訪ねてみるよ」 満寵は独り言のように呟くと、再びガタガタと階段を降りていく。その足音が完全に聞こえなくなるまで、#name#は法正の足元で息を潜めて小さくなっていた。 「......そろそろ俺も出勤だ。いつまでも居座るな」 やがて、自分の身支度の時間になった法正は、#name#を容赦なく立ち上がらせた。いつまでも甘やかし続けることはしない。#name#がこれ以上この部屋に逃げ込むことを許さず、現実と向き合わせるための線引きだ。しかし、玄関から彼女を無理やり追い出す直前、法正は無言で、大量にストックしてある『調整豆乳・バナナ味』を一本、彼女の手に押し付けた。先程まで突き放すような説教を繰り返していたくせに、最後はこうして栄養価の高いものを差し出してくる。甘すぎるプリンを否定しておきながら、自分が選んだのは、栄養満点でほんのりと甘いバナナ味の豆乳。その矛盾した行動に、彼なりのエールが詰まっていることを#name#は痛いほど理解していた。 「逃げずに、自分の足で立て」という無言の激励を受取り、#name#は法正の部屋を後にした。 法正の部屋を追い出され、自室のベッドへと潜り込んだ#name#は、薄暗い布団の中でスマホを起動する。LINEのトークルームには、案の定、馬岱からの新着メッセージが届いていた。 『話聞こうか?誰かに話すだけで、心が軽くなることもあるかもよ』 こちらの心の隙間に、一切の抵抗を許さずスルリと入り込んでくる、甘く優しいペテン師の言葉。法正の厳しさとは対極にあるその温もりに、#name#は少しだけ涙ぐんでしまった。