《第15話》
法正のスパルタかつ不器用なカウンセリングを受けた、その日の夜。
時刻は十九時を少し回ったところだった。#name#は自室の洗面台の前に立ち、心を無にして深夜のコンビニという戦場へ向かうための『仕事用メイク』を施していた。傍らに置いたスマホの画面には、馬岱から届いたLINEが表示されている。
『休憩は2時からだったよね?休憩時間中に行くから、裏口で待っててちょうだい!』
いつものように気さくで、有無を言わさぬ優しいメッセージ。#name#はそれに『了解』のリアクションボタンだけで短く返事を済ませた。
メイクを終えた#name#は、お気に入りのマンゴーラッシーを啜りながら、出発までの僅かな時間でネットサーフィンに興じていた。やがて彼女の指先は、動画共有サイト『YouTube』の、とあるチャンネルへと行き着く。六階の管理人、司馬懿が開設している『凡愚ちゃんねる』である。最新動画のタイトルは『諸葛亮の椅子にブーブークッションを仕掛けてやったわ!』だ。初老の男が仕掛けるにはあまりにも幼稚なイタズラ動画だが、その再生画面の下に表示されたステータスは、さらに悲惨なものだった。
(......高評価0、低評価250、視聴回数5......低評価の数どうなってんの。組織票にしても嫌われすぎでしょ)
#name#が哀れな管理人の動画を再生しようと、画面の中央のボタンに触れかけた、まさにその時だった。
ピンポーン!
静かな部屋に、無機質な玄関のチャイムが鳴り響いた。#name#の肩がビクッと跳ねる。心臓が、早鐘のように警鐘を鳴らし始めた。
――本当に、彼が来てしまったのだ。
#name#は足音を殺して玄関へと向かい、そろりと、無言のままドアを少しだけ開ける。ドアの隙間の向こう側に立っていたのは、間違いなくこの足音の主だった。
「こんばんは、#name#殿」
不動産屋トップセールスマン、満寵。彼は少しだけ困ったような、それでいてどこかホッとしたような笑顔を浮かべて、そこに立っていた。
仕事帰りの彼は、やはり今日も『完璧』に整っていた。プロのクリーニングに出したかのように、シワ一つなくピンと張ったスーツ。一番上まで一寸の狂いもなく、きっちりと閉められたボタン。いつもは跳ね回っている束ね髪も、今日は毛先までしっとりと綺麗に纏まっている。さらには、以前は履き潰されて草臥れていたはずの革靴までもが、つま先まで鏡のようにピカピカに磨き上げられていた。
(......これは、どう考えても......)
誰かの手が入っている。それも、彼の生活の細部にまで気を配れるような、極めて親しい『誰か』の確かな気配。あの時の、美しい黒髪が脳裏をよぎる。
「......こんな時間に、どうしたの?私これから、夜勤に行くんだけど......」
「#name#殿が私を避けてるって聞いたから、様子を見に来たんだ」
満寵の口から零れたのは、法正が吐いた嘘の伝言に対する、悲しげな言葉と笑み。#name#は彼の顔を直視することができず、所在なげに視線を彷徨わせた。
「い、いや......避けてるなんて、そういうわけでは......」
「話したくなければ、無理に話す必要はないよ」
気まずくなって下を向いてしまった#name#の言葉を、満寵は優しく遮った。責めるわけでもなく、かと言って逃げるわけでもなく、ただ真っ直ぐに会いに来る。押しが強いようでいて、その口調はあくまでも柔らかく、#name#の逃げ場をゆっくりと塞いでいく。
「......それと、これ。少しでも君の癒やしになればと思って、買ってきたんだ。#name#殿はマンゴーが好物だって、法正殿が教えてくれてね」
満寵は、俯いたままの#name#の視線に合わせるように、その場にスッとしゃがみ込んだ。そして、下から彼女の顔を覗き込むようにして、小さなケーキの化粧箱を差し出す。
(......法正殿......いつの間に)
あの不器用なヤクザは、嘘の伝言で満寵を揺さぶりながらも、ちゃっかりと#name#の好物を彼にリークしてくれていたのだ。#name#は鮮やかな黄色に様々なフルーツがプリントされた可愛らしい箱を受け取り、目を逸したまま「ありがとう」とだけ小さく呟いた。
「これから仕事なのに、あまり長居しては申し訳ないね」
満寵はゆっくり立ち上がると、#name#に背を向け、最後に極上の笑顔で振り返った。
「......それじゃあ、#name#殿。明日、十七時に迎えに行くから、支度して待っててくれ」
「......あ、......うん。楽しみに......してる」
有無を言わさぬ、しかし甘く誠実な決定事項。#name#は小さく手を振って彼を見送ることしかできなかった。
聞きたいことも聞けず、目も合わせられず、断ることもできないまま、明日のデートが完全に確定してしまった。相手の心にスッと入り込み、表面上は穏やかな紳士として振る舞いながら、相手が「ノー」と言えない状況を作り上げる。これぞまさに、不動産屋としての『囲い込み』の極意。満寵という男は、無自覚なのか計算なのか、本当に恐ろしく罪作りな男である。
玄関のドアを閉め、箱を抱えてリビングに戻った#name#は、テーブルの上でその蓋をそっと開けてみた。
「わあ、......すごい......高そう......」
箱の中から現れたのは、きらきらと宝石のように光る大ぶりのマンゴーの果肉と、彩り豊かな果実が贅沢に敷き詰められた、美しいフルーツタルトだった。それは、ただの高級な洋菓子ではない。満寵が自分のためにわざわざ足を運び、選んでくれたという『事実』の結晶だ。一瞬だけ、あの黒髪の『誰か』の影を忘れてしまうほど、そのタルトは目を奪われるような輝きを放っていた。#name#の心は、決して完全に冷めきってしまったわけではない。彼女の胸の奥には、彼に惹かれる感情が、揺り戻される余地が、まだ確かに残っていたのだ。
#name#はその宝石の塊をスマホで何枚か撮影したあと、再び箱に戻し、夜勤明けの楽しみにするため大事に冷蔵庫へと移動させた。
「......ん、これは?」
冷蔵庫の扉を閉める直前、#name#は箱の側面に、小さなメモ書きのような紙が貼り付けられていることに気が付いた。そっと剥がして手に取り、そこに書かれた文字を見つめる。
「............読めない」
そこに書かれていたのは、ミミズがのたうち回ったかのような、解読不能の雑すぎる文字の羅列。なんて書いてあるのか全く分からないそのメモを、#name#はとりあえず冷蔵庫の扉にマグネットで貼り付けると、法正から貰った『調整豆乳・バナナ味』をバッグに突っ込み、深い夜の戦場へと出掛けていった。