《第16話》
明日、十七時の約束。満寵によって逃げ道を塞がれ、無理やり確定させられてしまったデートの予定を抱えながら、#name#はその日も鉛のように重い心を引きずって夜勤のシフトに入っていた。
深夜一時を回った頃。自動ドアが開き、すっかり見慣れた不審者が入店してきた。四階に住む男、郭嘉だ。相変わらずのシマウマ柄セットアップに身を包んだ彼は、深夜だというのに『中華丼』と『龍角散』という絶望的な組み合わせの商品をレジに叩きつける。
「この間の差し入れ、読んでくれた? もし良かったら私と同じ保険に入って、私の死亡保険金の受取人になってくれないかな?」
郭嘉はとびきり甘い声と流し目で、強烈な入射角からのアプローチを仕掛けてきた。生命保険のパンフレットを押し付けた挙句、見ず知らずのコンビニ店員を死亡保険金の受取人に指名しようとするとは。狂気としか言いようのない、屈折した特殊すぎるナンパである。
「……千二百五円です」
しかし、#name#は完全に虚無の表情のまま、それを適当にあしらった。以前の彼女ならもう少しマトモなツッコミを入れていたかもしれないが、今の彼女には、この病弱なシマウマの変な話術に構っている余裕など一ミリもない。頭の中は、満寵のことでいっぱいで、今にもパンクしそうだったからだ。満寵のことで頭がいっぱいな彼女にとって、郭嘉の狂気じみたアプローチは有象無象のノイズに等しい。「受取人になって」という重すぎる愛(あるいは狂気)の告白も、電子音と共に右から左へ受け流されていった。
やがて、シマウマを無事に追い払い、深夜二時の休憩時間を迎えた。
#name#は店舗の裏口から外に出ると、冷たい夜気に包まれたコンクリートの地面にへたり込むようにしゃがみ込んだ。
「#name#ちゃん、お疲れ様」
不意に、頭上から明るく優しい声が降ってきた。顔を上げるとそこには、闇に紛れそうな、上下真っ黒なゆるっとシルエットの部屋着姿の馬岱が立っていた。五階に住むペテン師ディーラーは、しゃがみ込む#name#の目の前に、ストロー付きの冷えた紙パックをスッと差し出す。
「……え、なんでこれを? 私、マンゴーが好きって教えたっけ?」
#name#は差し出された『マンゴーラッシー』を受け取りながら、驚いて目を丸くした。
「ん〜? この間、朝会った時、部屋の中にこれが置いてあったの見えたから、好きなのかなと思ってさ」
馬岱は事もなげにそう言うと、嫌な顔一つせず、冷たいコンクリートの上に#name#と並んで腰を下ろした。
(……朝、非常階段から声をかけられたあの一瞬で、部屋の中の飲み物まで把握してたの?)
対人スキル限界突破の男が持つ、恐るべき観察眼。相手の好みを瞬時に見抜き、絶妙なタイミングで差し出してくるその手腕は、法正や満寵とはまた違ったベクトルで恐ろしい。
「ありがとう……。ていうか、こんな時間なのに、本当に来てくれたんだね」
「当然! そのために時間空けておいたんだから! さあ。何でも聞くから、気が済むまで俺にぶつけてみてよ」
馬岱は屈託のない、人懐っこい笑みを浮かべた。彼のその笑顔の裏に、『あと数時間後には自分も仕事に行かなければならない』という過酷なスケジュールが隠されていることなど、#name#は知る由もない。
#name#はマンゴーラッシーのストローを咥えながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。満寵が誰かの手によって完璧な姿へと変わってしまったことへのモヤモヤ。彼が美しい黒髪の『誰か』の肩を抱いて歩いていた光景。明日には無理やりデートの予約を入れられてしまったこと。そして、ケーキの箱に貼られていた、解読不能の謎のメモ書きのこと。胸の内を整理するように、一つずつ静かにすべてを打ち明ける#name#。馬岱は彼女の話を一切遮ることもなく、否定することもなく、ただ隣で寄り添うように「うん、うん」と優しい相槌を打って聞いていた。その声色は深夜の冷気をじんわりと温めるように低く、どこまでも甘い。法正が傷口を焼く『劇薬』なら、馬岱は痛みを和らげる『麻酔』だ。荒れ狂っていた感情の波を、絶妙な相槌のペースが静かに凪へと変えていく。相手の懐に入り込むことを生業とする男の、恐ろしいほどの傾聴スキル。彼にかかれば、どんな人間の心の鍵もたやすく開けられてしまうのだろう。
「……なるほどね。つまり、明日は楽しみだけど、楽しみじゃない。どんな顔をして会えば良いか、分からないってことだよね?」
すべてを聞き終えた馬岱が、深夜の空気に溶け込むような、静かな低音で優しく尋ねた。
「うん……。うまく、笑えない気がする……」
「上手く笑おうと思うから、笑えないんじゃないかな。笑顔ってね、無理して作るもんじゃない。自然と溢れるものだよ」
彼の声は、どこまでも甘く、そして心地よかった。膝を抱え、小さく身をすくめる#name#に、馬岱はふわりと微笑んでさらに言葉を紡ぎ続ける。
「自然と溢れないなら、それはまだ『心が泣いてる証拠』。それを無理やり泣き止ませて笑顔を取り繕うのは、自然体とは言えないよね。君が満寵殿に『素のまま』を求めるなら、まずは君自身が素直になることが大事だと思うよ」
#name#の心に張られていた防御壁を、馬岱の言葉がスルリとすり抜けて、一番柔らかい部分に触れた。
「………確かに、そうだけど……」
「それに、読めないっていうメモ? それも、きっと何か意味があるだろうね。わざと#name#ちゃんには読めない字で書いて、自分のところへ聞きに来させる作戦かもしれない……って、これは俺の深読みだけど!」
彼は深い眼窩の奥で、悪戯っぽく笑ってみせた。満寵なら、そのくらい回りくどい策を弄してきてもおかしくはない。けれどもし、純粋に字が汚いだけだったら?あれこれ考えることすら今の#name#には何の意味も成さないほど、彼女の頭中には曇天が広がっていた。
「まあ、あり得なくはないけど……」
「とにかく! 彼が部屋に引き篭もらずに直接会いに来たり、メモを残したりして、#name#ちゃんに『何かを伝えようとしている』のは確かな事実でしょ? だったら、今度は君が素直な心で向き合う番。嫌なことは嫌って伝える、気になることは気になるって言ってみる。それでいいんだよ」
馬岱はそう言って、膝を抱える#name#の背中を、そっと優しく叩いた。ただ甘やかすだけでなく、彼女が自分の足で一歩を踏み出せるように、背中を押してくれる魔法の言葉。#name#の胸の中で渦巻いていたどす黒いモヤモヤが、彼の言葉によって少しずつ、クリアに晴れていくのを感じた。
法正に「客観視しろ」と現実を突きつけられ、馬岱に「無理に笑わず素直になれ」と感情を肯定された。真逆のアプローチだが、二人とも彼女の背中を押してくれている。逃げ道を塞がれた絶望のデートは、いつしか『自分の本当の気持ちを確かめる直接対決の舞台』へと変わり始めていた。
時刻はすでに、深夜三時。一時間の休憩時間は、あっという間に過ぎ去った。
「それじゃ、またね。おやすみ〜!」
#name#がマンゴーラッシーの空きパックを抱えて店の中へ戻るのを見届けると、馬岱は大きく手を振りながら、来た道を帰っていった。寝不足で仕事へ行くことが確定している者とは到底思えない、太陽のように陽気な笑顔を見せながら。#name#はその後ろ姿が見えなくなるまで、手を振り返して見送るのだった。