《第17話》

過酷な夜勤を終え、#name#がマンションへと帰還したのは、東の空がうっすらと白み始めた午前四時頃だった。 エントランスの自動ドアを抜けると、ガラス張りの管理人室の中に、異様な光景が広がっていた。六階に住む天才軍師、諸葛亮である。彼はなぜか椅子に座ろうとせず、立ったままの姿勢で豪快に『油そば』を啜り、右手には『ミルクティー』を構えていた。おそらく、昨夜#name#がこっそりと高評価ボタンを押した司馬懿の底辺YouTube動画、ブーブークッションの仕掛けを極度に警戒しているのだろう。 (……朝四時から立ち食い油そばって、胃袋どうなってんの……) #name#は心の中で盛大にツッコミを入れながら、その前を素通りして自室のある三階へと向かった。自宅の冷蔵庫で宝石のように輝くマンゴータルトが無事であることを確認した#name#は、一息つく間もなく、あの『解読不能のメモ』を握りしめて自室を飛び出した。向かった先は、隣室である。 ピンポーン。 チャイムを押して数秒と経たないうちに、ガチャリと扉が開いた。 「はい、#name#殿。こんな朝方にどのようなご用件で?」 そこに立っていたのは、赤ら顔でひどく酒臭いカラオケ店員、荀攸だった。 「俺は今、晩酌を……あ、いやもう朝方なので晩酌ではないですね。なんて言うんでしょうか、朝酒ですか? そんなことより、近頃の#name#殿は満寵殿や法正殿と睦んでいるようですが、なにか企んでいるのでしょうか。彼らは一筋縄ではいかない厄介な男です。俺のような単純な男なら良いですが、あなたはもう少し人を見る目というものを養ったほうが――」 放っておけば無限に言葉を紡ぎ出しそうな荀攸の口元に、#name#は握りしめていた例のメモをバシッと突き付け、無理やりその演説を強制終了させた。 「あ、あの! 荀攸殿……今日は一人?」 「先程まで文若殿と飲んでいましたが、彼は少し前にダブルソフトの耳を持って帰りました。でも何故ですか?彼に何か用でも?まさか俺を差し置いて文若殿に――」 「ねえ、このメモ……なんだと思う?」 荀攸は虚ろな目で、#name#が突き付けた雑な殴り書きのメモをじっと見つめた。 「なるほど。この雑な殴り書きは、間違いなく満寵殿の字ですね。彼は昔から字が酷く汚い。図面しか描けないので、パソコンで文字打ちができる職を選んで今の仕事なんですよ……ああ、それから――」 「これ、なんて書いてあるか分かる!?」 「はい、俺には分かります。というか、お隣の徐庶殿や下の法正殿、郭嘉殿や文若殿も分かると思います……ですが」 荀攸はそこで言葉を区切り、ひどく真面目な顔を作った。 「このメモに何が書いてあるか、そこまでは俺の口からは言えません。気になるようなら、満寵殿ご本人に聞いてみてはどうですか」 (……言えない?) 完璧なフルリノベーション物件だと思い込んでいた彼に、まさか『字が絶望的に汚い』という人間らしいポンコツな欠陥が残されていたとは。その事実を知った瞬間、#name#の胸の奥で固まっていた緊張がふっと解ける音がした。彼を完璧に仕立て上げた見えない『誰か』でさえも、このミミズが這うような悪筆までは直せなかったのだ。それは、彼女が非常階段から眺めていた『隙だらけの彼』が、まだ確かに存在しているという何よりの証拠だった。 早口でまくし立てる荀攸を無視して、#name#は「ありがとう」とだけ残し、バタンと玄関を閉じる。しかし、どうしても解読を諦めきれなかった#name#は、念のためマイナスイオン玄関のチャイムも鳴らしてみた。 すると仄暗い森の中から、なぜか『人工芝風の部屋着』を見に纏い、真緑のピーマンを生のまま喰らっている徐庶がのっそりと現れた。#name#は例のメモを見せ、「何が書いてあるか分かる?」と問い掛ける。しかし、徐庶の返答もまた、荀攸と全く同じ「分かるけど、内容は言えないな」というものだった。さらに念のため、#name#はエントランスへと取って返し、先程立ち食いで油そばを食らっていた諸葛亮の元にも突撃してみた。しかし、結果は同じ。 「解読はできますが、詳細はご本人に聞いてください」 諸葛亮はそう言ってメモを#name#に返すと、手元にあった雑巾で油そばの脂でテカテカに光る髭をワイルドに拭いながら、何故か意味ありげにフッと微笑んでいた。彼らから返ってくる答えは、見事に一致している。これでは、他の住人を訪ねたところで、結果は同じだろう。 #name#はついに、自力での解読を諦めた。 この狂人だらけのマンションの住人たちが、示し合わせたように口を噤むとはどういうことだろう。まるで全員がメモの意味を理解した上で、#name#が自ら満寵に踏み込むよう仕向けているかのようだ。普段は他人の奇行を嗤っているくせに、こういう時だけ妙な連帯感を発揮する彼らが、少しだけおかしくて頼もしい。その時、脳裏に蘇ったのは、数時間前に深夜の裏口で馬岱がかけてくれた言葉だった。 『気になることは気になると言ってみる。それでいいんだよ』 (……そうだ。本人に直接聞くしかない) どんな残酷な事実が隠されていようとも、逃げずに彼と向き合うのだ。#name#はそう決意し、あのメモの件を満寵本人に問いただすことに決めた。そそくさと自室へ戻った#name#は、冷蔵庫から宝石のタルトを取り出し、朝ご飯代わりに少しだけ口に運んだ。高級なマンゴーの甘さが、疲れた身体と心に染み渡っていく。 時計の針は、午前六時を回ろうとしている。デートの約束は十七時。十五時に起きれば、服を選んで、シャワーを浴びて、メイクをして、完璧なデート仕様の自分に変身する時間は十分にある。 口の中に広がる芳醇な甘みは、彼が自分のためだけに時間を使ってくれた事実を確かに証明していた。あの黒髪の存在を完全に払拭できたわけではないし、傷つく怖さもまだある。けれど、馬岱の言葉や法正の不器用なエール、そして彼自身の不格好なメモ書きが、#name#に一歩踏み出す勇気をくれていた。 #name#はベッドに潜り込み、重い瞼を閉じた。真下の二階の部屋からは、法正の目覚ましアラームであろう「南無妙法蓮華……」というお経の大音声が、地味な振動と共に響いてきている。カオスな日常の音に包まれながら、#name#は今夜の決戦に向けたワクワクと、黒髪の『誰か』へのモヤモヤを胸に抱え、静かに眠りについた。