《第18話》

十五時ちょうど。静かな部屋に、「ホーホーホッホー♪」というキジバトの鳴き声を模した間の抜けたアラーム音が響き渡った。#name#はベッドから跳ね起きると、すぐさまクローゼットの扉を勢いよく開け放った。 「これと、これと、これ……あ、やっぱりこっちかな……?」 姿見の前に立ち、何着もの服を取っ替え引っ替え身体に当ててみるが、どうもしっくりこない。十七時までにシャワーを浴びて、メイクも完璧に仕上げなければならないのだ。服選びに悠長に時間を掛けている場合ではないのに、迷えば迷うほど時間はあっという間に溶けていく。 「……あ〜、どうしよう。何着ればいいんだ……これか? いや、これ? ……あ、これは論外」 #name#は手にした一着の服を、親の仇のように睨みつけた。 「てか、よくこんなダサいのプレゼントしてくるよなぁ。センス疑うわ」 それは先日、郭嘉から一方的に押し付けられた『ウシ柄のセットアップ』。#name#はそれを容赦なくリビングの床へと放り投げた。 時計の針が進み、時間は早くも十五時四十分を回ろうとしている。一瞬だけ、かつて歴代の恋人たちに好評だった『勝負服』を着て行こうかという考えが頭をよぎった。しかし、#name#はすぐに首を振った。他の誰かのために着た服を選ぶのは、なぜだか満寵に対してひどく失礼な気がしたのだ。 結局、#name#は『自分自身が一番好きでいられる、お気に入りのコーデ』を選ぶことに決めた。決めた服を持って脱衣所に駆け込んだ時点で、時刻は十五時五十分。 (十五分でシャワーを終わらせれば、メイクしても間に合う!) そう意気込んで浴室へ飛び込もうとした、まさにその時だった。 ドスンッ!! バタンッ!! ガチャーン!!! バリーンッッ!!! 上の階の主がどこからか帰宅したのか、瞬く間に四階の部屋が騒がしくなった。何か重いものを落とす音、家具を倒す音、そして何かを盛大に壊し、割る音。 (絶対泥棒と格闘してるか、部屋爆発してるでしょ……) 相変わらずの凄まじい騒音を気にしながらも、#name#は猛ダッシュでシャワーを浴びた。 #name#がシャワーから上がると、時刻は十六時十分。メイクをする余裕はまだ十分に確保できている。彼女は先ほどリビングに放り投げた『ウシ柄のセットアップ』を拾い上げると、それを無慈悲に二つ折りにして即席の座布団を生成。そしてその上に座り込み、手際よく『外用の自分』を作り始めた。#name#が真剣な顔でアイラインを引いている最中、上の主も風呂に入ったのだろう。天井の向こう側の浴室から、大量に水を流す音が聞こえてきた。そして、それに重なるようにして。 ボワァーーーッ! ボワァーーーッ!!! (……は?) 入浴中の主に止められることのないスマホが、おそらく床に直置きされているのだろう。戦の始まりを告げる『法螺貝の音』と共に、ブブブブッ!という激しいバイブレーション音を床越しに奏で始めたのである。 「ふふっ……」 #name#の口から、自然と笑みがこぼれた。完璧にリノベーションされた姿を見せてきても、彼の中身はやっぱり、奇妙なアラームをセットするポンコツなDIYオタクのまま。そして何より、彼も今、壁と床を隔てたすぐ向こう側で、自分と同じように必死になって支度をしているのだ。そう思うと、胸の奥のモヤモヤが少しだけ晴れていくような気がした。 一通り準備を終えて、十六時四十五分。#name#は姿見の前に立ち、前後左右、おかしなところが無いかその場でくるくると回って念入りに確認した。そして、鏡に映る自分の姿をじっと見つめて、小さく呟く。 「……なにこれ。気合い入りすぎ……まるで私が、一人で張り切っててバカみたいじゃん」 鏡の中にいるのは、深夜のコンビニで虚無の顔をしてレジを打つゾンビではない。淡いデニムジャケットに同色のデニムロングスカートを合わせた、お気に入りのデニム・オン・デニムスタイル。髪は丁寧に巻いて高い位置でポニーテールにし、メイクも程よく華やかに映える色を選んだ。誰がどう見ても、完璧な『デート仕様』の女の子である。 #name#は自分の素直すぎる姿に、顔を真っ赤にして恥じらった。 彼に可愛いと思われたくて、あの見えない『黒髪の誰か』への焦りを少しでも振り払いたくて、無意識のうちに一番自分を綺麗に見せてくれる色のリップを塗っていた。そんな乙女心丸出しの自分に気づいてしまうと、途端に居たたまれないような恥ずかしさと照れくささが込み上げてくる。だけど、ただの騒音被害者だったはずの自分が、たった一人の男のためにここまで一生懸命に身支度をしているという事実が、今は決して嫌いではなかった。 「……よし!」 両手で自分の頬をパンッと叩き、深呼吸をしてスマホをバッグにしまう。緊張で喉がカラカラに渇き、冷蔵庫に残っていた廃棄の野菜生活を一気に流し込んだ。キッチンの時計は、十六時五十八分を指している。そろそろ来るか……と、上の様子に静かに耳を澄ませていると。 バタンッ!! 荒々しく玄関の鉄扉が閉まる音がした。そして、いつものように、非常階段をドタバタと慌ただしく駆け降りて来る革靴の足音。キッチンの磨りガラスの向こう側を通過する、背の高い影。三階の非常口から、このフロアへと入ってくる人の気配。そして、自分の部屋の前でピタリと止まる足。 (ああ……) #name#にとって、上の階から降りてくるその慌ただしい足音は、これまでずっと聞き慣れてきた『ただの騒音』だったはずだ。しかし、今日は違う。非常階段を駆け降りる音も、廊下を歩く音も、その一つ一つが全部、愛しい彼が『自分を迎えに来る音』に変わっていた。ドクン、ドクンと、心臓の音がうるさいほどに跳ね上がっていく。今まで何度も窓越しに見送ってきた背中。呆れながらも、いつの間にか目で追うようになっていたあのポンコツで愛おしい姿。それが今、この扉の向こう側に立って、自分だけのために会いに来てくれたのだ。どんなに完璧な姿で現れようと、法螺貝のアラームで駆け降りてくる彼の根っこは変わっていない。そう確信できたからこそ、不安よりも圧倒的な『好き』という感情が、胸の奥からとめどなく溢れ出していた。 ――次の瞬間、静かな部屋にチャイムが鳴り響いた。時計を見る。時間は、十七時ちょうど。一分一秒の狂いもない、完璧なタイミングだった。