《第19話》

(……ああ。あの保険屋みたいな、破壊的なファッションだったらどうしよう。……めちゃくちゃ怒ってたらどうしよう……) 玄関のドアノブに手をかけた#name#は、緊張で小さく息を吐き出した。もし彼が郭嘉のような絶望的センスの服を着ていたら、いくら顔が良くても一緒に歩くのは苦行である。そして何より、「顔を見たくない」という法正の嘘の伝言のせいで、彼が不機嫌になっていたらどう対応すべきか。様々な不安が渦巻く中、#name#は震える手でゆっくりとドアを開けた。静かなコンクリートの廊下に立っていたのは。 「こんばんは、#name#殿」 「…………すごいね。ぴったりだよ、時間」 気まずさと、気合い十分な自分の姿を見られることへの恥ずかしさが入り混じり、#name#は声のトーンを抑えてそう返すのが精一杯だった。控えめに笑う満寵の私服は、白と青の配色で爽やかに、そして綺麗に纏まっている。 (……良かった。シマウマみたいな激ダサファッションじゃなくて……) 内心で安堵の息を撫で下ろした#name#だったが、すぐに彼の姿にある『違和感』を覚えた。 今日の彼は、ここ数日のような『完璧な不動産屋』の姿ではなかった。以前の、どこか抜け落ちたところのある男に戻っていたのだ。青と白の切り替えデザインの爽やかなシャツは、またしても見事にボタンが一つ飛ばしで留められており、襟元が情けなく曲がっている。頭頂部の尻尾のような束ね髪も、急いでいたのか若干右に寄っていた。しかし、#name#にとってはあまりにも見慣れた姿すぎて、毎度どこかしら不備があること自体が、もはや彼なりのオシャレのようにすら思えてしまう。 「……今日は、完璧じゃないんだね」 #name#は呆れたように、満寵の胸元を指差した。 「ん? ああ、今日は急いでいたし、一人だったからね」 「はぁ……。ちょっと屈んでよ」 「こう、かな......?いやぁ、すまないね」 満寵は#name#と同じ高さになるように、困ったような、それでいて嬉しそうな笑顔を浮かべながらスッと腰を曲げた。何気なく発せられた「一人だったから」という言葉が、逆に『一人ではない時がある』という事実を浮き彫りにしていることに、彼は気づいているのだろうか。 「……なんか……スーツ姿しか見たことないから、違和感ある」 #name#はボソボソと呟きながら、彼の掛け違えたボタンを外し、正しい位置へと留め直していく。その作業をしながら、#name#の脳裏には『黒髪の誰か』の姿が鮮明に浮かび上がっていた。正体不明のあの黒髪の人物も、こんなふうに距離を詰め、彼の胸元を直したのだろうか。そう考えれば考えるほど、胸の奥がギュッと締め付けられる。彼の身体から漂う、湯上がりの清潔で爽やかな匂い。それに包まれているはずなのに、#name#の心だけが、嫉妬という泥濘で汚れていくようだった。 「せっかく#name#殿と二人きりだからね、それなりにしないと」 「格好が良くても、ボタン掛け違えてるようじゃダメじゃない? 子供じゃないんだから」 「ははっ……御尤もだ。……けれど、#name#殿も普段とはかなり雰囲気が違うね。似合っているよ」 満寵が極上の笑みを浮かべた瞬間、#name#の胸の奥で『ズキュン!』と心臓が狙撃される音がした。 「……っ、やめてよ、恥ずかしい」 顔が赤壁の戦いのごとく真っ赤に燃え上がるのを感じながら、#name#は整え終えた彼の胸元をポンッと軽く叩いた。そして満寵は曲げていた腰を伸ばすと、「行こうか」と自然な動作で彼女の手を取り、歩き出す。二人は手を繋いだまま、非常階段を降りて駐車場へと向かった。 時刻は、十七時過ぎ。マンションの他の住人たちは、まだ仕事の真っ只中である。奇行種揃いのこのマンションにおいて、十七時という時間は誰からの邪魔も入らず、尾行される心配もない最も安全な空白の時間帯だった。デートの時間指定ひとつにまで、住人の行動パターンとリスク管理を完璧に織り込んでいるあたり、やはり彼は恐ろしい策士である。だが、その周到な計算の裏には、「誰にも邪魔されず、ちゃんと#name#と二人きりの時間を作りたかった」という、彼なりの不器用な愛情と独占欲が隠されていた。 (ああ、やっぱり……) 一歩先を歩く、彼の広い背中。手から伝わる温もり。#name#は心の中で、ついに白旗を揚げた。完璧なフルリノベ物件なんかじゃない。私はこの『完璧ではない、不備ごと愛しい男』が好きなのだ、と。#name#は自分の本当の気持ちを、はっきりと認めていた。 しかし、魑魅魍魎の棲むマンションが、この甘い雰囲気を最後まで許してくれるはずがない。 二人がマンションの駐車場に到着すると、そこには三脚にセットしたスマホに向かって、四枚の『初心者マーク』を嬉しそうに見せ付ける管理人の姿があった。 「フハハハハ! 今日はこの初心者マークを、忌々しいプリウスに貼ってやるわ!! 諸葛亮、これで貴様も初心者に逆戻りよ!!!!」 司馬懿は初心者マークを天高く掲げ、カメラに向かって高笑いしている。そしてその後方。強引に役割を押し付けられた鍾会が愛用自転車の『英才号』に跨り、司馬懿を後ろから映すようにデジカメを構えている。その憐れみの視線は、凡愚親父の背中に注がれていた。 「………」 「見よ、 この車体!諸葛亮め……洗車を怠って、砂まみれではないか! ふん! このような見すぼらしい車には、この色鮮やかな若葉が必要なのだ!!」 司馬懿はブツブツと独り言を言いながら、諸葛亮の砂まみれの愛車・プリウスのボンネットの四隅に、ペタペタと若葉マークを貼り付け始めた。もはやイタズラを通り越して、ただの嫌がらせテロである。 「………」 #name#と満寵は、動画撮影中の司馬懿に気付かれないよう、音を立てずに静かに黙って彼の後ろを通過した。間違いなく、背景の端のほうに二人の姿が見切れて映り込んでいるはずだ。後で撮影した動画をチェックした時、背景に仲良く手を繋ぐ自分たちが映り込んでいるのを発見した司馬懿がどんな顔をするのか。それを想像し、#name#はモヤモヤした感情を一時忘れて、心の中で盛大に爆笑していた。