《第22話》
あのスリルと狂気に満ちたサバイバルドライブを乗り越え、二人が辿り着いたのは、和モダンな雰囲気が漂う隠れ家的なオシャレな和食店だった。店内は客も疎らで、とても静かで落ち着いた空間が広がっている。席に案内してくれた店員の接客態度も極めて洗練されており、間違いなく『食べログ評価4.8』に相応しい価値があった。
二人が通されたのは、入り口から最も遠い、外の景色が見える窓際の個室だった。誰の邪魔も入らない、静かで親密な空間。それは、あの車内で満寵が『食べログ警察』と化して見せた『店選びの面倒くささ』が、ここで見事に報われている図であった。相手としっかり向き合い、話を聞く夜の舞台としては、これ以上ないほど完璧なセッティングである。
間接照明の柔らかな光がテーブルを照らし、ほのかに香るお香の匂いが、先程までのドライブの殺伐とした空気を完全に上書きしていく。完璧に計算されたこの親密な空間で、満寵は優雅な手付きで急須を持ち上げ、#name#の湯呑みに温かいお茶を注いでくれた。いつもならその完璧なエスコートにただ見惚れていたかもしれない。けれど、今の#name#の心には『見えない黒髪の誰か』という大きなしこりが居座っている。このまま彼のペースに飲まれて、いい雰囲気のままデートを終わらせるわけにはいかないのだ。核心を突くための武器は、すでに準備してあるのだから。
二人は早速注文を済ませ、料理の到着を待つことになった。そして、#name#は静かに鞄を開けると、例の件について彼に迫るべく、あらかじめ用意しておいた『解読不能のメモ』を取り出し、テーブルの上へバシッと叩き付ける。
「……これ。なんて書いてあるの? 字が汚すぎて読めないんだけど?」
#name#は目を細め、静かな威圧感を込めて満寵を睨みつけた。
「ああっ、……! わざわざ持ってきたのかい?」
出発前の玄関先でのスマートなエスコートはどこへやら。メモを見た瞬間、満寵の完璧な笑顔が引き攣り、何故かひどく焦ったように声が上ずった。
つい数秒前まで大人の余裕を漂わせていたトップセールスマンの仮面が、音を立てて罅割れていく。端正な顔立ちから血の気が引き、彼の瞳はテーブルの上の紙切れと#name#の顔を激しく往復した。その慌て方は、重大なミスが発覚した営業マンのそれだ。彼がこれほど狼狽えるということは、このミミズがのたうち回るような悪筆は、間違いなく彼自身の直筆だということ。誰かに完璧に整えられた姿で現れても、この致命的な『ポンコツ具合』までは隠しきれなかったのだ。その事実が、#name#の胸の奥に燻っていた焦燥感を不思議なほど軽くしてくれた。
「ま、参ったな。……とりあえずそれは私が預かるよ」
「なんでそんなに焦ってるの?」
強引にメモを回収しようとする満寵の手をかわし、#name#はさらに追及の手を緩めない。
「……これ、読めないから荀攸殿と徐庶殿と諸葛亮殿に解読してもらったけど、内容は『本人に聞け』ってみんな言うから……」
「………え? 彼らに見せたって?」
#name#のその言葉を聞いた瞬間、停止スイッチが押されたかのように満寵の動きがピタリと止まった。
「……まさか......そんなことになっているとは……っ」
満寵は顔を両手で覆い隠し、深々と天を仰いだ。
魔窟マンションの誇る頭脳――あの厄介な天才軍師たちに、自分の残したポンコツ極まりないメモを見られ、解読されていた。その事実は、彼にとって致命的なダメージだったらしい。彼がここまで珍しく、そして分かりやすく動揺を見せたことに、#name#は直感で何かを感じ取った。あのマンションが誇る天才軍師や策士たち。彼らがこの暗号のようなメモを見た時、どんな悪魔的な笑みを浮かべたのかが容易に想像できた。彼らは満寵の字の汚さを熟知しているだけでなく、この殴り書きの奥に秘められた『満寵の赤裸々な本音』を正確に解読したに違いない。その上で、あえて#name#には教えず、満寵自身が、個室という逃げ場のない状況で、好きな女にこれを直接白状させられるという最高のエンターテインメントを作り上げたのだ。その絶望的な構図に気づいてしまった満寵の背中からは、これ迄にない悲痛なオーラが立ち昇っていた。
マンションの面々が、揃いも揃って「言えない」と目を逸らしながら口を噤んだこと。諸葛亮が油そばの脂を拭いながら、意味深に奇妙な笑みを浮かべていたこと。彼らにメモを見せたという事実が、こんなにも満寵の動揺を誘うとは。やはり、他人には絶対に見られたくないような、恥ずかしい内容だったのだろうか。
「なんか怪しい……なんなの? これ。もしかして、あ――」
愛の告白とか?と、冗談で#name#が意地悪く聞き出そうとした、その時だった。
「ああっ! ……これは……」
満寵はついに限界を迎えたのか、テーブルの上に身を乗り出し、#name#の手からメモを強引に取り上げた。
「これは……今の君には、まだ早すぎるかもしれない。然るべき時が来たら、改めて伝えよう」
満寵はひどく気まずそうに視線を逸らしながら、奪い取ったメモをそそくさと懐にしまい込んだ。
#name#に完全に追い詰められ、彼の様子は明らかにおかしくなっていた。深く長い溜息が増えたり、意味もなくキョロキョロと視線を彷徨わせたり、俯いたかと思えば再び天を仰いだり。とにかく落ち着きのない子供みたいに、身体のどこかが必ず動いているという異常事態が続いている。
どんな手強い商談相手にも完璧な話術で応じてきた男が、たった一枚の自分のメモのせいで完全に思考回路をショートさせている。顔を覆う手から覗く耳の先は、火が出るほど真っ赤だ。あの隙のない姿はもう見る影もなく、そこには自分のポンコツな字のせいで自爆した、不器用な男の姿しかなかった。もし彼が本当にあの『黒髪の誰か』のモノなら、こんな無防備で情けない姿を#name#に見せるはずがない。#name#の胸に渦巻いていた嫉妬と不安は、彼が視線を彷徨わせるたびに、甘く愛おしい優越感へと変わっていった。
窓際の個室という逃げ場のない空間で、#name#の鋭い視線に晒され続ける満寵。彼はついにテーブルの下でギュッと両手を組み、ただひたすらに心の中で天に祈り始めていた。
(……ああ、何たる醜態だ。……『季節の蕎麦御膳』、早く来てくれ……!!)
評価4.8の完璧な舞台で、完璧な男は今、ただの蕎麦の到着を待ちわびる哀れな姿へと成り下がっていた。