《第23話》
満寵が心の底から待ちわびていた『季節の蕎麦御膳』が、ついに個室のテーブルへと運ばれてきた。
彼は早速食事を始めようと割り箸を手に取ったが、その割り方が絶望的に下手くそすぎて、いとも簡単に二膳の割り箸を斜めに割って無駄にしてしまった。そもそも彼はひどく『面倒な男』である。割り箸ごときで素直に食事が始まるわけがないのだ。目の前に置かれた蕎麦を見て何かに気付いた満寵は、テーブルの端にあった呼び出しベルを、殴り付けるように拳で叩いた。その直後、すぐさま駆け付けてきた女性店員に向かって、彼は超絶真顔の冷めきった声で淡々と言い放つ。
「失礼ですが、こちらのお蕎麦、提供する前に確認されましたか? お品書きには『写真と実物は異なる場合がある』と記載されています。しかし、これはどう見ても違いすぎると思うのですがどうでしょう? 明らかに百グラム……つまり一人前よりも少ないとは感じませんか? 麺というのは、百グラムから百五十グラムが一人前の正規の分量です。基準を満たしていない商品に、正当な金額は払えませんよ。……それから、お冷もまだのようですが、いつになったら頂けるのでしょうか」
感情を一切交えない、隙のない理詰めのクレーム。飲食店が一番嫌うタイプの、客観的事実と数字を用いた『理屈型クレーマー』の極みである。
「も、申し訳ありません……っ、すぐにお持ち致します……!」
「なんか、すみませんね。この人、ちょっと頭がおかしくて」
今にも泣き出しそうな女性店員に対し、#name#は困惑顔で申し訳なさそうにフォローを入れた。店員が未熟な蕎麦を逃げるように下げていき、バタンッと個室の扉が閉まる。満寵は、上手く割れずに失敗した二膳の割り箸を、手の中でバキッと半分に折り曲げた。
「#name#殿、何故だ。店側の落ち度はしっかり指摘しなければ、食べログの評価はいつになっても更新されない。それでは、あの評価を期待して来店したユーザーが不愉快な思いをするだけだ」
満寵はキツめの顔を作り、己の正当性を主張した。デートの甘い雰囲気など完全に粉砕し、ただ己の正義と『評価4.8』のメンツを守るためだけに、ひどく面倒くさい正論を振りかざす。あの狂気に満ちた煽り運転といい、この理詰めクレームといい、彼の中には「自分が正しいと思ったことは絶対に曲げないよ」という、厄介極まりないサイコパスの片鱗が確実に潜んでいた。
「はいはい、分かってるよ。でもさ、言い方ってもんがあるでしょ? もう少し柔らかく……あの店員さんだって、作られたものを運んでるだけなんだから。彼女に言ったって意味ないじゃん。言うなら店長とかに言わないと」
「ならば、店の主人に」
満寵が再び呼び出しベルを押そうと手を伸ばした瞬間、#name#はそのベルをサッと彼の手の届かない位置へと遠ざけた。そのとき。#name#のポケットでスマホが震えた。そして#name#は、新たな割り箸に手を伸ばしている彼にバレないよう、こっそりとスマホの画面を確認。すると、そこには一通のLINEが届いていた。
『状況はどうかな?君のことだから、きっと上手くやってるだろうけどさ。素のまま、強気で向き合ってみると意外とスッキリするもんだよ!強要はできないけど、一つのアドバイスとして頭の片隅に置いといてくれたら嬉しいな。あ、返事は気にしなくていいからね!』
それは、昨夜#name#の背中を押した馬岱からのエールであった。彼なりに#name#を気にかける、アフターフォロー。顧客のその後を確認する職業柄のそれとは違う、確かな情がそのメッセージには込められていた。絶妙なタイミングで差し出された、ペテン師からの甘く優しい言葉。けれど、そこにあるのはただの甘やかしではない。『素のまま、強気で向き合え』という、今の#name#に一番欠けていた勇気を引き出してくれる魔法の言葉だ。法正の不器用なエールで立ち上がり、馬岱の優しい言葉で背中を押される。魑魅魍魎の巣窟だと思っていたマンションの男たちの存在が、今は#name#にとっての最強装備になっていた。
#name#はサッと読み通すと、一瞬だけスマホを握り締め、再びポケットに押し込んだ。そして、暗雲を切り裂く矢を満寵へと打ち込む。
「……そんなことより。いいの? 私とこんなことしてて」
「うん?」
#name#の急な問いかけに、満寵は手元に残っていた御膳の刺身を口いっぱいに頬張り、まるで餌を溜め込むリスのような顔で首を傾げた。
「うん?じゃなくて!……彼女がいるんじゃないの?」
#name#は、メインの食事が届く前に待ちきれずに注文していた『贅沢あんみつ』を喰らいながら、真っ直ぐに彼の目を見据えた。
「まさか。私に恋人が居たら、#name#殿を誘うなんて不誠実なことはしないよ」
満寵は頬を膨らませたまま、八の字眉で切なそうに笑った。先程まで店員に理詰めの文句を言ってキツい怒り顔をしていたというのに、それが無かったかのように今は困り顔で笑っている。その情緒の切り替えの早さと落差に、#name#はもはやツッコむことすら放棄した。代わりに、あの夜の残酷な光景を、容赦なく蒸し返す。この時点で#name#はもう、「素直になれ」という馬岱の言葉の通り、「言いたいことは言う!」という強気な心持ちへと完全にシフトしていた。
「嘘! この間、コンビニの前を黒髪の誰かと歩いてたよね? 見たんだよ。私、嘘つく人が一番嫌いなの」
「コンビニの前……? ……ああ、確かに通ったけど」
「ほらっ!」
「まあまあ、落ち着いて。#name#殿、私は断じて嘘なんて言っていない」
「……」
#name#は疑いの目を向けながら、スプーンの先で怒りに任せてあんみつの白玉をツンツンと突いた。
そんな彼女の様子を見て、満寵はふっと口角を上げた。痛いところを突かれて焦るでもなく、言い訳を並べ立てるでもない。彼の顔に浮かんだのは、不動産屋として『客が自分の提示した条件や物件に、強烈な興味を示した』と確信した時の、自信と優越感に満ちたトップセールスマンの笑みだった。彼女が自分に対して嫉妬し、怒り、そして独占欲を見せてくれている。その事実が、彼にとっては何よりの好条件だったのだ。
「信じられないって顔だね。……それなら、確かめに来るといい。私の家に来れば、全てが分かるよ」
言葉で説明するのではなく、自分のテリトリーに招き入れて『現物』を見せる。それはまさに、顧客を納得させるために物件を直接見せる、不動産屋の得意スタイル『内見展開』そのものであった。
「……もし嘘をついてたら、四階から突き落とすからね」
#name#は最後にあんみつをペロリと完食すると、メニューを開いて次の甘味へと手を伸ばした。彼女が最後に放った物騒な一言。それは、この食事の後、満寵に『テイクアウト』されることを完全に了承する言葉であった。