《第25話》
「あっ……」
ガチャリと玄関の扉が開き、#name#が息を呑んで見つめる先。そこに現れたのは――ネクタイを緩めながら、小走りでバタバタと慌ただしく部屋の中に入ってくる凄腕弁護士、荀彧だった。
てっきり、誰もが振り返るような絶世の美女が現れるのだとばかり思っていた#name#の予想は、見事に、そしてこのマンションの住人らしい斜め上の角度から裏切られた。荀彧は#name#たちの存在に軽く会釈をすると、慣れた手つきでビシッとしたスーツを脱ぎ捨て、部屋の隅にあった『たたみ柄のもんぺ』と『毛玉だらけのパーカー』という、絶望的にオフすぎる姿へと素早く着替えた。さらに、流れるような動作で綺麗に結っていた長い黒髪を解く。バサッと広がったその艶やかな黒髪を見た瞬間、#name#の脳内で全てのピースがパズルのようにカチリと繋がった。
(……あ)
あの夜、満寵の隣を親しげに歩いていた『美しく長い黒髪の誰か』。その正体は、絶世の美女でもなんでもない。いつもパンの耳を抱え歩いている、この男だったのだ。『長い黒髪の謎の美女』に見えていた存在が、正体を開示した瞬間にいつものパンの耳男へと着地する。その見事なまでのオチに、#name#は思わず一人で深く納得してしまった。胸の奥でドロドロと渦巻いていた嫉妬と絶望が、音を立てて崩れ去り、代わりに特大の安堵と脱力感が押し寄せてくる。完璧にセットされた満寵のヘアスタイルも、シワ一つないスーツも、清潔なホワイトムスクの香りも。そのすべては、女の影などではなく、ただの『身だしなみにうるさい同居人の小姑』による指導と管理の賜物だったのだ。夜の駅へと向かう道すがら、二人が親しげに肩を寄せていたように見えたのも、単に男同士の距離感バグか、あるいはパンの耳についての高尚な議論でも交わしていただけなのだろう。
「すみません、#name#殿。何のお構いもできなくて。私はこれから公達殿と飲む約束があるので」
「……え? ちょっと、これって……?」
「ああ。満寵殿があなたと二人だけになりたいと言っていたので、承諾しました。私も公達殿と密会したり、工場直売所巡りに一日割いたり気ままに過ごしていますから、お互い様ということで」
荀彧はそう言うと、どこから取り出したのか、パンの耳が大量に詰め込まれた袋を肩にひょいと担ぎ上げた。法廷で無敗を誇る天才的な頭脳を持ちながら、たたみ柄のもんぺ姿でサンタクロースのようにパンの耳を担ぐ男。どう見ても異常な光景だが、今の#name#にとって、彼は恋のライバルどころか、むしろ自分の誤解を解きに現れた救世主のようにすら見えた。
「な、なる……ほど……?」
「満寵殿、戸締まりはお忘れなく。それから、脱いだスーツはしっかり伸ばしてあれ(ハンガー)に掛けておいてください。アイロンに水を補充するのもお願いしますよ。……それでは#name#殿、ごゆっくり」
荀彧は最後に意味深な微笑みを浮かべると、パンの耳が入った巨大な袋を抱えたまま、ドタバタと荀攸の元へと出掛けていった。嵐のように去っていった荀彧。残された満寵と#name#の間には、なんとも言えない静かな空気が流れていた。玄関の扉が閉まる音が響くと同時に、部屋の中には再び二人きりの甘い緊張感が舞い戻ってくる。#name#の心の中にあった「彼には特別な女性がいる」という最大の懸念は、今や完全に、そしてひどく滑稽な形で払拭されていた。
「……誤解は解けたかな? #name#殿」
満寵が、困ったような、それでいてどこか嬉しそうな声で静寂を破る。
「どういうこと……?」
「実は、荀彧殿の自宅は隣の隣なんだ。でも、彼の部屋が今、内装リフォーム中でね。それで、作業が終わるまでここで仮住まいさせて欲しいって、お願いされたんだよ」
「あ、それで……さっき、隣の隣のお宅の荷物が廊下に出されてたのか」
「そういうこと。最初は郭嘉殿を頼ることを勧めたんだけど、荀彧殿が『彼の家は貧乏で何もない、仮でもあんな貧乏暮らしは嫌だ』って全力で拒絶してね。……私は片付けが苦手だから、交換条件として『この部屋の整理整頓』を提示して承諾したんだ」
満寵は困り顔で苦笑いした。家を改造中の凄腕弁護士が、保険貧乏の家を全力で拒絶し、整理整頓を対価に不動産屋の部屋に転がり込む。この奇行種だらけのマンションにおける、あまりにもカオスすぎる相互互助関係。#name#が、水回りだけが異常に綺麗だと戦慄した通い妻の痕跡も、ただ単に荀彧が自分の使う水回りだけを念入りに掃除し、その他の散らかった荷物には一切手をつけていなかったという、極めて合理的な理由によるものだった。
「……あまり片付いてないような気がするけど」
「そうなんだ。整理整頓するっていう条件なのに、彼は毎晩のように荀攸殿と飲んで帰ってくるから、片付けるのは共同で使う水回りだけ。おまけに身だしなみに煩くて、毎朝注意されてるよ」
満寵は八の字の困り眉を作って笑う。完璧な身嗜みも、ピカピカの水回りも、すべてはあの小姑のような敏腕弁護士の仕業だったのだ。
「そっか……それなら、良かったけど」
#name#の口から、心の底からの安堵の吐息が漏れた。すると。張り詰めていた糸が切れ、#name#の表情から怒りと疑念が完全に消え去った。自分でも気づかないうちに、恋に落ちた乙女の無防備な顔を晒してしまっていたのだ。その『条件クリア』のサインを、トップセールスマンである彼が見逃すはずがなかった。
「そういえば、#name#殿」
先程までの困り顔の好青年から一転、満寵の声のトーンが、スッと一段階低くなった。
「私が女性と歩いていた、と勘違いして怒っていたよね。……それはつまり、そういうことかな?」
「そういうことって……どういうこと?」
本当は、完全に分かっている。#name#が視線を泳がせたその瞬間、急に彼の目付きが変わった。
甘く優しい好青年の仮面が剥がれ落ち、そこには狙った獲物を絶対に逃さない、肉食獣のような雄の顔があった。彼にとって、#name#の誤解と嫉妬は、ただのトラブルではなく『彼女の好意を裏付ける確たる証拠』だったのだ。自分のために怒り、嫉妬してくれた彼女の感情を、今度は彼自身が絡め取っていく番である。
一歩、また一歩と距離を詰められ、#name#は散らかった荷物だらけの壁際へと追いやられる。そして満寵は彼女の背中を壁にピッタリと押し付けると、彼女の頭上を覆うように、ドンッと壁に腕を付いた。身長差を最大限に活かした、逃げ場のない壁ドンの図である。散乱するDIY資材や謎のコード類に囲まれた、お世辞にもロマンチックとは言えないゴミ屋敷のようなこの部屋。しかし、目の前にいる彼の熱を帯びた瞳と、低く響く吐息だけが、この空間を甘く危険な密室へと変貌させていく。もう、どこにも逃げる隙間なんて与えられていない。彼が仕掛けていた周到な『囲い込み』の罠は、ついにこの四階の部屋の壁際で完成を迎えようとしていた。
「分かってるのに、男に言わせるつもりかい?」
耳元に降ってくる、甘く低く、マイルドな悪魔の声。すぐそこにある、満寵のしたり顔。栗色を煮詰めたようなその深い瞳は、爛々と#name#を狙っている。彼を四階から突き落とす理由は、もう完全に無くなった。しかし、それと引き換えに、#name#の心臓は先程までとは全く違う、甘く危険な緊張感に激しく支配されていくのだった。