《湿気の封印、覚醒への静寂》

満寵の顔が、あと数センチで触れそうな距離まで迫る。爛々と光る瞳、魅惑的な甘い声。普通なら完全に理性が落ちてしまうその瞬間――#name#の鼻腔を強烈に突き抜けたのは、恋の甘い予感ではなく……信じられないほど激しい『湿気と土の匂い』だった。 「……無理。なんか、どこからか森の匂いがして集中できない」 #name#は真顔で満寵の腕をバシッと払いのけ、漂ってくる森の香りに吸い寄せられるように玄関を飛び出した。向かったのは、このマンション内で唯一、マイナスイオンが濃厚に漂う部屋――徐庶の自宅である。 コンクリートの廊下に、なぜかここだけ深く静かな樹海の空気が漏れ出していた。完璧に計算されたホワイトムスクの香りや、不動産屋の強引なプレッシャーで擦り減った神経を、その湿気を帯びた匂いが嘘のように鎮めていく。ここは、カオスなマンションの中で唯一、競争も効率も存在しない絶対的なオアシスなのだ。 「徐庶殿! ちょっと匿って――って、!?」 勢いよくドアを開けた瞬間、#name#の視界は一面の『緑』に染まった。そこには、床一面に敷き詰められた絶妙に変色した人工芝と、その上で『キノコの着ぐるみルームウェア』にすっぽりと身を包み、膝を抱えて丸まっている徐庶の姿があった。 「……#name#。やっぱり来たか。俺の『気』が、君の困惑を察知してしまったようだ……」 徐庶は、手元で読んでいた愛読書『榎茸の世界(シリーズ図鑑第四巻)』をそっと閉じると、のっそりと立ち上がった。着ぐるみのぽってりとしたキノコフードから覗く彼の瞳は、ひどくジメジメとしているが、不思議と清流のように澄み切っている。頭に巨大なキノコの傘を被り、ぽてっとした丸いフォルムのルームウェアに身を包んだ成人男性。おまけに足元は、どこからどう見てもプラスチック製の人工芝である。完全に狂気とファンタジーが融合したホラー空間なのだが、なぜか彼がその中心にいるだけで、不思議と森の妖精に出会ったようなマイナスイオンすら感じてしまうから末恐ろしい。 「……それより、なんでキノコ着てるの?」 #name#の真っ当なツッコミに、徐庶は悲しげに目を伏せた。 「これは俺の部屋着だ。……満寵殿のような太陽の光を浴びる男は、君のような繊細な花をすぐに枯らしてしまう。……俺なら、君をこの深い森で、優しく湿らせてあげられるのに」 徐庶は人工芝の上を音もなくスススッと移動し、呆然と立ち尽くす#name#の手をそっと握った。その手は少し冷たくてジメッとしていたが、足元の人工芝の感触が指に馴染んでいくような、奇妙で不思議な心地よさがある。 「……っ、ちょっと?」 「#name#。この部屋にある人工芝は、君が来るのを待って、俺の涙で育てたものだ」 「………(いや、人工芝は涙じゃ育たないけど!?)」 「もう、外の世界の喧騒に疲れる必要はない。俺と一緒に、この榎茸の図鑑を読み耽り……永遠の静寂の中で、胞子を飛ばさないか?」 ――前代未聞の、樹海プロポーズである。 (……一生、キノコとして生きるとか、無理すぎる!!!) #name#の顔は、あまりのシュールさと、徐庶の放つ異常なまでの『馴染みやすさ』に、赤くなるのを通り越して完全に脱力していた。だが、足元に広がる人工芝の感触が、満寵の強引なアプローチで疲弊した心に、意外なほど優しく染み渡っていくのも事実だった。トップセールスマンの隙のないエスコートや、ヤクザ営業マンの強引な束縛に比べれば、この男の湿度はあまりにも異質だ。しかし、誰かのために完璧に着飾ったり、相手のペースに合わせて気を張ったりする必要が、この『森』には一切ない。ただ一緒に息をして、静かに沈んでいける。その限りない優しさが、疲れ切った#name#の心にスポンジのように水を吸い込ませていった。 「……まず先に。その着ぐるみ、脱いでくれない!?見た目のせいで、台詞が全然入ってこないんだけど!」 「言葉が届かないなら、何度でも言うよ。俺は……」 絶妙に変色した人工芝の上。徐庶はそれまでの頼りないジメジメとした笑みをスッと封印すると、頭をすっぽりと覆っていたキノコのフードをバサッと脱ぎ捨てた。キノコの被り物の下から現れたのは、前髪の奥に隠されていた鋭く男らしい眼差しと、端正で色気のある輪郭。先程までのジメジメとした頼りなさは跡形もなく消え去り、そこには愛する女を確実に仕留めようとする『一人の雄』の強烈な引力が渦巻いていた。 「──俺は君が好きだ」 突然牙を剥いた反則級のギャップに、#name#の心臓は今度こそ、胞子よりも早く空高く舞い上がってしまうのだった。