《盤面を支配する、極厚の誘導》

「では#name#殿、ごゆっくり」 意味深な微笑みを残し、荀攸の元へ向かったはずの荀彧だったが――わずか十分もしないうちに、彼は満寵の部屋の『合鍵』を使って、音もなく静かに戻ってきた。 その足音の無さは、まるで獲物を狙う蛇のようだった。ガチャリという微かな金属音と共に扉が開いた瞬間、部屋の温度がスッと数度下がったような錯覚に陥る。完璧なタイミングで帰還したこの男は、最初から荀攸が潰れていることを知っていて、あえてこの『一番良いところ』で満寵の邪魔をするために戻ってきたのではないか。そんな恐ろしい推測すら立ってしまうほど、彼の佇まいは計算し尽くされた余裕に満ちていた。 リビングでは、満寵が#name#を壁際に追い詰め、ドヤ顔で壁ドンを決めたままフリーズしている。その足元で瓦礫のような荷物に埋もれている#name#は、完全に困惑顔だ。 「……公達殿が、既にキティちゃんのセットアップ姿で倒れていたので、戻りました」 静かな部屋に、突然響いた涼やかな声。 「ところで満寵殿、その腕を退けてください」 「荀彧殿!? なぜ戻って……っ!」 荀彧は毛玉だらけのパーカーの腕をバサッと捲り上げながら、狼狽する満寵へと歩み寄った。そして、手に持っていたダブルソフトの匂いを漂わせながら、有無を言わさぬ圧力で満寵をモップのように部屋の隅へと追いやり、おもむろに汚部屋の掃除を始める。先程まで肉食獣のような瞳で#name#を壁際に追い詰めていたトップセールスマンが、今や小姑のような男の理不尽な圧力の前に為す術もなく後ずさりしていた。不動産屋のテリトリーであったはずのこの部屋は、合鍵という物理的な絶対権力を持つ荀彧によって、瞬く間に制圧されてしまったのだ。 「#name#殿。こんな男の壁ドンなど、埃が舞うだけで何の価値もありません。それより、こちらへ。水回りだけは私が死守しましたから」 #name#は手首を掴まれ、半ば強引に、彼のこだわりが詰まった綺麗な水回りへと連行される。脱衣所に入ると、そこだけは本当に満寵の部屋とは思えないほどピカピカに磨き上げられていた。しかし、#name#の視線は洗面台の棚に釘付けになる。そこには、荀彧が持ち込んだであろう『絶妙にダサいびっくりチキン柄のマグカップ』が、二つ仲良く並んでいたのだ。 「……え、なにこれ。荀彧殿の趣味?」 突然の腹黒策士の帰還以上に、その絶望的なセンスにビックリして#name#は目を丸くした。 「いいえ、ペアです。一つは貴女の分ですよ」 荀彧は当然のように微笑んだ。彼はトーストしたダブルソフトの耳をちぎり、#name#の口元へと運ぶ。そして、満寵がリビングで折れたキャンプチェアと格闘している隙を見計らい、#name#を洗面台と自分の身体との間にすっぽりと閉じ込めた。彼の艶やかな長い黒髪から、清潔な石鹸の香りがふわりと広がる。 「……っ、ちょっと、荀彧殿?」 先ほどの満寵の壁ドンとは明らかに違う、逃げ場のないヤバい雰囲気に、#name#の背筋が粟立った。 「満寵殿は『リフォーム中の仮住まい』と言いましたが……私は、一度住み着いた場所は二度と手放さない主義なのです」 荀彧は、#name#の耳元へスッと顔を寄せた。その涼やかな声は、もはや理路整然とした弁護士のそれではなく、罠へ落ちた獲物を狙う男の熱を帯びている。 「あの男に、プロポーズのメモを書かせたのは私です。彼なら必ず失敗し、貴女が私の元へ相談に来ると分かっていましたから」 「……えっ」 「……#name#殿。あんな汚い部屋の主より、貴女を綺麗に管理できる私を選びませんか?」 その言葉を聞いて、#name#は背筋が凍るような戦慄と、どうしようもない甘い痺れを同時に覚えた。マンションの住人たちが示し合わせたように口を噤んだのも、あの解読不能なメモが彼女の手元に渡るように仕向けたのも、すべてはこの男が盤面を支配し、#name#を自分の腕の中へ誘導するための完璧な計略だったのだ。ゴミ屋敷の主を当て馬にし、一番清潔で安全なこの水回りという密室で、彼女の退路を完全に断つ。その法廷でも見せないような冷酷で甘い独占欲に、#name#は完全に絡め取られていた。 このマンションで一番まともなフリをして、一番性格が悪い。それが荀彧という男の真骨頂だった。#name#の心臓が、耳元に吹きかかる甘い吐息で激しく波打つ。目の前には、美しすぎる黒髪の策士と、絶望的にダサい黄色のびっくりチキン。その高低差の激しいギャップに、#name#は頭が殴られるような感覚に陥った。 「……愛を囁く前に、そのダサいマグカップ、なんとかしてよ! ムード台無しなんだけど!」 #name#は動揺を隠すように、びっくりチキンのマグカップをコンコンと指先で叩いた。 「ならばこのカップは、貧乏すぎて……いえ。何も持っていない郭嘉殿に差し上げることにして……私たちは、一緒に新しい食器を揃えましょうか」 荀彧は静かに、そして満足げににっこりと微笑んだ。そして、反論を許さない手つきで、#name#の口にダブルソフトの最後の一切れを無理やり押し込んだのだった。